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防衛機制

あまりにも悲惨、もしくは本気で思い出したくない経験を人がしたときには、脳はその記憶を曖昧なものにしようとするのだろうか。もしくは、思い出したりしたら生きていけないような状況の時には、ひどい記憶に蓋をするように脳は働くのだろうか。そんなことを考えました。 阪神・淡路題震災から一定の時間がたった後、私はとある大きめの事故に遭って大けがをしました。その時は事故の本当の瞬間、助け出されるまでの自分がどんなだったか、今もほとんど思い出すことができません。直前、直後の記憶はしっかりとあ

    • 私は震災を乗り越えたのか その4

      自分の情けなさ、弱さ加減に辟易しながらも、日々の生活を送っていましたが、その後、体調を崩し、簡単なものではあったのですが、手術をするに至り、仕事を休職してしばらく療養生活を送ることになりました。ちょうどその時期にあのヒノキアスナロが神戸に持ってこられることを知ったのです。 メディアに近い位置で長く仕事をしてきた経験から、プレスリリースをチェックすることが私の習慣になっていました。それは職業病のようで、療養期間中でも変わりありませんでした。2017年10月4日、一番最初の「世

      • 私は震災を乗り越えたのか その3

        大学を卒業し、就職、その後の転職や転勤を経てそれなりに社会人としての経験を積み、忙しく日々を送る中で震災のことを不意に思い出すことも減ってきた頃に起こったのが、2011年3月の東日本大震災でした。テレビの向こう側に見える「非現実的な現実」を見るにつれ、1995年のことが強く思い出され、当時も何もできなかったことを思い出したり、2011年の自分も、今は何もできなさそうだという気持ちからなのか、精神的、心理的によくない時期が続きました。 2011年当時、私はすでに神戸に戻ってき

        • 私は震災を乗り越えたのか その2

          大学2回生の終わりごろ、ひょんなことがきっかけで知り合って仲良くなった同じ学部の子が大学の寮に住んでいて、その子に誘われて寮の彼女の部屋に遊びに行きました。その部屋で二人でお酒を少々飲んでいました。だんだん酔ってきた彼女が話す言葉が明らかに神戸弁だと思ったので(それまで、神戸弁とわかるような話し方を彼女は私の前でしていませんでした)、「実家、神戸なん?」と尋ねると、「全壊したんやけどね、実家」という答えが返ってきました。「〇〇さん(私)も神戸やろ?話し方で前からなんとなくそん

        防衛機制

          私は震災を乗り越えたのか その1

          1995年1月17日、別の投稿にも記したように、当時十代なかばだった私は激甚被災地の中にいて、地震発生から半日以上、生き埋めになり、その後に助けられるという経験をしました。どうにもならない自然の大きな脅威を経験し、住む場所も、家財道具も、思い出のものも一気に失いましたが、家族・親戚が命を落とすことがなかったことは本当に救いでした。 ただ、自分が生まれて育った街、自宅が物理的に破壊されたこと、当時付き合っていた人が地震で亡くなったこと、両親が経済的な対応を迫られていることなど

          私は震災を乗り越えたのか その1

          1995年、阪神淡路大震災での私の経験

          「 #世界一のクリスマスツリー 」のイベント期間中、Twitter上で「世界一のクリスマスツリー」のアカウント(非公式アカウントです)を運用しながら、なんだか眠れない日々を過ごしていました。2017年11月の半ばから、結局1月17日を過ぎるあたりまでそんな感じでした。 私はその時までに自分が1995年の1月17日に、具体的にどのような体験をしたか、はっきりと誰にもいっていませんでした。それはいまだに自分の家族との間でもそうだったりします(家族の中で一番最後に私が助け出された

          1995年、阪神淡路大震災での私の経験

          2017年年末の「世界一のクリスマスツリー」について

          これまで、Twitterでつぶやいてきましたが、記録として残しておこうかと思い、noteを始めました。 取り急ぎ、通称「 #世界一のクリスマスツリー 」とは・・・ 自称「プラントハンター」、2017年の年末に実施された西畠清順氏による『めざせ!世界一のクリスマスツリーPROJECT ~輝け、いのちの樹。~』のことで、富山県氷見市の巨木(主催者側はいまだにアスナロの木と言い続けていますが、ヒノキアスナロの木です)を神戸港に「植樹」し、世界一高い(当初はそうだった)クリスマス

          2017年年末の「世界一のクリスマスツリー」について