私は震災を乗り越えたのか その1

1995年1月17日、別の投稿にも記したように、当時十代なかばだった私は激甚被災地の中にいて、地震発生から半日以上、生き埋めになり、その後に助けられるという経験をしました。どうにもならない自然の大きな脅威を経験し、住む場所も、家財道具も、思い出のものも一気に失いましたが、家族・親戚が命を落とすことがなかったことは本当に救いでした。

ただ、自分が生まれて育った街、自宅が物理的に破壊されたこと、当時付き合っていた人が地震で亡くなったこと、両親が経済的な対応を迫られていることなども目にしていたことで、継続的にストレスフルな状況に置かれてもいたし、とにかく直後は感情がぐちゃぐちゃな状態でしたが、でもそれを通り越して、何も手につかず、心ここにあらずという状態だったような気がしますし、あの日からしばらくの記憶が詳細には思い出せなかったりもします。

被災者が被災体験からどう立ち直っていくか、そのことについての論文を見たことがあるのですが、まず災害が起こると「茫然自失期」、「ハネムーン期」を経て、数か月後から「幻滅期」を迎え、最後には「再適応期」に至るとのことなのですが、なるほどと頷けます。「茫然自失期」と呼ばれる時期は、様々な感情が欠如する傾向にあり、その後の「ハネムーン期」は、大きな災害を共に経験し、そこを生き延びたことで被災者同士が強い連帯感で結ばれ、援助などに希望を見出して被災地全体が暖かいムードに包まれる時期だそう。ただ、私たち家族は避難所生活を2か月弱ほど経験したのちに(そのうちの半分近くは足を怪我して手術をしたこともあって、私は大阪市内で入院していましたが)、神戸を出て新たな生活を始めるという選択をしたこともあって、「ハネムーン期」をほとんど経験しなかったと思います。その分、「幻滅期」(援助の遅れや行政の失策への不満が噴出したり、やり場のない怒りにかられたりする。自分の生活の再建と個人的な問題の解決に追われるため、地域の連帯や共感が失われる)が早く私や私たち家族にはやってきたのかもしれないと、振り返れば思います。

私たち家族は関西の、違う街に新たに住み始めましたが、そこは被害が大きくなかったこともあって、震災前とは殆ど変わっていないであろう時間が流れていました。神戸にいたころとは違って、近所づきあいをすることも全くなく(あえて両親も避けていたのだと思います)、とにかく被災したからこの街にやってきたということを、悟られないようにしている節がありました。かつ、家族の中でもほとんどあの震災の話はしませんでした(これは今に至ってもそう)。

そんな生活の中でふいに深い悲しみが襲ってきたり、大学受験を控えていたということもあって、それがうまくいくのか、その先の将来への不安等も重なって、不安障害のような状態にもなっていたと思います。大学受験を乗り越え、入学した大学で知り合った人たちに「どこの出身?」と聞かれ「神戸」と答えるとその先が面倒になると思ったこともあって、神戸ではない違う場所を言ったりもしていました。

私以外の家族は2年弱ほど後、神戸に家を再建し、戻りました。私は進学した大学が神戸の大学ではなかったこともあり、一人で通っていた大学の近くに住むことになり、その後就職をしてからもその場所に住み続け、そして仕事上の転勤などがあって東京に住んだり、それ以外の場所に住んだりもしましたが、学生時代に住んでいた街にまたもどり、それからかなり長い時間がたった後に、あるきっかけがあって神戸に戻るという決断をして、今に至ります。

続きます。

#阪神淡路大震災

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