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『木星のワイングラス』執筆裏話📖´-

今回の作品を執筆した中でのこぼれ話的なのをいくつか書いていけたらなあと。

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まずこれは私の中の正義なんですけど、絶対にハッピーエンドを書かないというお話。

特に実話から作品を書く時には強く意識して書いてたりします。

だってハッピーエンドにするってことは今現実に色々な辛いことがあって、苦しんでて、戦ってて必死で前に進んでてっていう人が本来抱えてるものを否定するってことになると思うから。

それでお客様から見てああ幸せになれたんだね、よかったね。って思われるのが私はすごく嫌だから。

そうじゃないって反論も沢山聞いたし、言ってることは分かるけど、私から見えてる世界にはハッピーエンドは存在しなくて。

ただ逆に全く救われないっていうエンドにもしないようにしてます。笑

作品の中で生きる人達は誰かが救われるためにすごくすごく頑張って生きているから。

それを無下にするようなエンドにはしたくない。

ただ誰かを救おうと戦ってる彼女も、彼も幸せを謳歌できてはいないから救いに一歩届かない。

それが私から見えてる世界。

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そして今回こだわったのが
『主演と裏主演には正しいことを言わせない』ということです。
要するに由良と南雲ですね。

正しさは時として人を傷付ける。
この2人は自分がたくさん正しさやあるべき姿に傷ついてきたからこそ、人を正しさで傷付けられないという足枷を引きずって生きている。

だからこそこの2人は正しいことを言わない。
もちろん間違ったことだけを言うということではなく、ただ正義という言葉の似合わない人間であってほしかった。

(そんなことを意識して書いたらガチで正義という言葉の似合わない役者が爆誕してしまったのも含め、演出家として制作としては頭抱えた反面、脚本家としては自分の書く世界の強さにドヤ顔したりとか。)

反対に波揺や蒼衣は傷つきながらも正しさという部分を救いにして生きることができている。

まだその範囲内にいられる波揺や蒼衣を半ば羨ましいと思いながらも大切な存在だから相手を否定せずに生きるしかない由良と南雲ってああ美しいなと思ったり。

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そしてコロナ禍の今だからこそと模索したテーマが『ネガティブケイパビリティ』。

日本語に訳すと答えの出ない事態に耐える力。

このコロナ禍はこれといったはっきりした正解のない中でみんな悩み抜いて決断してそれを叩かれたり賞賛されたりそんな社会。

個人的に人間それぞれがこのコロナ禍に対して考えをもつのは大切だと思うけど、そのことを不用意に議論することほど不毛なことってないと思ってる。
それくらい拉致があるがあかないというか答えの出ない問題を今抱えてる。

そんな毎日を耐える力。
あやふやで白黒はっきりつかない状態がずっと続くのはとてもストレス。
それに耐える力がネガティブケイパビリティ。

由良の言う『私にしかできないこと』は不確定要素で、それを手にするまでにたくさんの不安があるでしょう。私にしかできないことがあったとしてそれを人から認めてもらえるかという話しもある。

虹七の願う由良と波揺に笑っていて欲しいという願いだって自分ではどうすることもできない、あの2人がどう動くか不確定な中でできることを続けるのでしょう。

波揺が戦ってる受験だって何時間勉強しても落ちる可能性はあり、どうしても運要素任せなところがある中でモヤの中での戦いになる。

悠里が結論として夢見た小さな幸せだって何時どこにあるものなのかわからない。もしかしたら探せど探せど見つからないのかもしれない。それでも信じて生きるしかない。

蒼衣に至っては南雲の存在自体が不確定要素だし、結局最後は消えてしまう。過去も今も未来もたしかなものが何も見いだせない不安の中を何とか夢だとか南雲だとかに縋って踏んばって生きるしかない。ネガティブケイパビリティの際たる存在。

南雲や優希のような絶対的破壊神としての存在さえも現在の世界においてはこのネガティブケイパビリティを求められる世間の波に飲み込まれて、闇堕ちして言ってしまう。
絶対的破壊神という極端な存在に対してグレーゾーンに留まり続けることを求めるネガティブケイパビリティを持つ世界という対立さえもできない矛盾した世界の構造はどれだけ酷なものだっただろう?

自分軸で生きられない彼らは自分で自分を認めてみたところでこれっぽっちも幸せになんてなれないのだからもう仕方がない。

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結局この物語の世界に救いなんてものはなくて。
どうしようもないことしかなくて。
蒼衣だって救われないし
由良だって救われないながらに生きる道しるべを見つけたに過ぎない。

でもそれでももっと彼女たちに救われて欲しいと願ったのが波揺であり、虹七であり、南雲であり。

ただ3人とも本質的には救われないことをわかった上で少しでもと願う。

残酷な優しさを私は描きたかった。
その残酷性に無自覚な波揺はそれはそれで何故かかっこよかったりするし、
虹七も健気だったりするし、
自覚的な南雲とは痛みを共有できたりする。

波揺の役者さんはとことんその辺に無自覚的な上できっと本能的には何かを掴んでるタイプの方だったし、
虹七の役者さんは私の脳みそを彼女の目で分析することの出来る方だったし、
南雲の役者さんは私とは違う目で私と同じ世界を見られる方だったから成立した部分もある。

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そんなことを脚本だからこそ書けるけど
シラフでふっつーーーの文章として書いたら
きっとみんな私をやべぇ人間、関わりたくない人間だとしか思わない。

だからね、本当は怖いんだよ。

自分のそんな思想やら信条やらリアルをさらけ出してる脚本を役者さんに預けることが。

怖くて仕方ない。
そこに触れないで欲しい気持ちと触れて欲しい気持ちで戦ってる。

生々しさと本物
ファンタジーと虚構
この2つのバランスが美しく整った時、初めて観客に届くと信じて心を削る。

今回どの程度届いたのだろう?
届かなくても同じ世界を見てくれた人がいたならそれでいいのかもしれない。

伝わる伝わらない以前にまず同じ世界を見て欲しい。
だから今回音より色にこだわったかもしれない。

そんな執筆裏話でしたよっと。

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