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クラッカー

シンクを磨く手を止めて、いつのまにか出来上がった内装を見回す。できるだけシンプルにしたいんです。デザイナーとの打ち合わせで、私が出した要望はそれだけだった。壁の色はやわらかな白、カウンターと十脚だけの椅子はウォールナットで揃えた。天井から吊るしたいくつかの照明はぼんやりとしたオレンジ色だ。スピーカーからブッゲ・ヴェッセルトフトの前衛的なピアノが流れてくる。静かで、疑問符をかすかに含んだような旋律。迷い込むように、誰がが来てくれたらと思う。路地を抜けて、薄明かりのついたこの店を見つけて。オーブンが焼き上がりの音を立てる。塩とオリーブオイルで焼いたクラッカーが乗った天板を取り出して冷ます。洗ったまま伏せてあったガラスポットを晒で拭く。今までずっと、私から会いに行っていた。好きな店に、そのオーナーやスタッフに、居合わせるひとたちに。たくさんのひとに出会った。惹かれ合うこともあったし、弾かれたり、弾いてしまうこともあった。ひととひとは皆違う、だから等間隔ではいられないのだと思った。使った晒を広げて椅子の背にかける。ぎゅっと絞った布巾でカウンターを拭く。隅に置いた小さな花瓶には、まだ何も挿していない。帰りに花屋に寄ろうと思う。褪せた色合いの、秋に似合う花を探そう。シンクで銀のボウルに水を張って、布巾を漂白剤に浸す。ゴム手袋を外し、黒いエプロンも外す。細身のワイングラスに白ワインを少しだけ注いで、小皿に移したクラッカーと一緒に運び、端の席に座る。まとめた髪をほどいて髪留めをカウンターに置く。グラスに口をつけると、ひんやりとやわらかな酸味が広がる。疲労がゆっくりとほどけていく。次は私が誰かの灯りになりたい。そう思って昼の仕事を辞めた。ぼんやりとした頼りない灯りかもしれないけれど。クラッカーを一口つまむ。シンプルな小麦の味。何かハーブを混ぜて焼いてもいいかもしれない。ローズマリーとか、オレガノとか。ここに立って、私はまた誰かに出会いたいと思う。まだ未明のひとたちに。これから紡いでいく縁に。振り返って窓の外を見ると、夕暮れはいつのまにか終わっている。白いシャツを着た自分の姿が映り込む。よく知っているはずで、実は全然知らない女。明日は窓を磨こうと思う。開店までもう少し間がある。

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