うんこ論文調

デリダは、ある講演で、「アメリカ独立宣言」と「フランス人権宣言」を比較することを頼まれた。しかし彼はその講演の冒頭で、それは自分の手に負えない問題だと釈明し、もっぱら、アメリカ独立宣言についてのみ論じていくことになる。

というふうに書き出すと、なんだか論文の「はじめに」みたいな雰囲気を醸し出してしまっているが、そういう意図はない。(しかしこういう文体で文章が書けるようになったのは、我ながら驚きだ。小学校では読書感想文もロクに書けなかったのに!)僕はいま、入試に向けて受験勉強をしている。倫理学という科目がある。過去にはたとえば「倫理学の可能性と限界について論じなさい」のような、壮大な問題が出題されてきた。毎年、たった一問だけだ。僕が持ち合わせている思考で(つまりデリダ的な観点で)書けそうな主題ならば良い。だが、そうでない問題もある。たとえば「徳について倫理学の観点から論じなさい」という問題が出たことがある。これは手に負えない。そこで、だ。冒頭のデリダのやり口を上手くパクれればよい。「はじめにお断りしておかなければならないが、徳について論じることは私の能力の限界を超えている。そこで、今回は徳と密接な関係を持つ道徳と、倫理との差異について、論じていきたい」云々。これで内容が説得的だったらイケそうな気がする。ダメか?そもそも、自分が正当でないことに対して釈明し続けなければいけない、というのがデリダの正義観であるように思える。十全には聞き入れられ得ない言い訳を並べるのが正義に適うための条件だ。

倫理学の観点から哲学を勉強してこなかったことには一抹の不安があるが、できることは限られている。書けることを書くしかない。書けることを書く、という練習をするしかない。それはこのエッセイでもやっていることだ。書けることをくどくどと書き連ねる。これが正しく「書く」という営為ではないだろうか。

いやだなぁ、冒頭を論文調にしちゃったせいで、全体的に論文みたいな文章になってしまった。

「うんこ漢字ドリル」というものがあるらしい。漢字ドリルというカタいフォーマットにうんこを導入することで、子どもたちが遊び感覚で勉強できるのだそうだ。上の文章にもうんこを導入すれば、遊びの感が出るだろうか。

デリダは、ある講演で、うんこが1週間出ていない主催者に、「アメリカ独立宣言」と「フランス人権宣言」を比較することを頼まれた。しかしデリダはその講演の冒頭で、うんこを済ませてスッキリした表情を浮かべながら、それは自分の手に負えない問題だと釈明し、もっぱら、アメリカ独立宣言についてのみ論じていくことになる。…………

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