カサニマロ べんとう の教育論(2021年5月)

こんにちは。べんとうです。

本を読んでいて、そろそろ頭がパンクしそうだったので、一時保存的にnoteに記したいと思います。


まず、教育の中で現状トッププライオリティで取り組まなければならず、かつ実現できそうな手軽な課題だと思われるものが2つあります。

1.勉強を好きにさせる。好奇心を磨かせる。

2.自分の考えや将来像を言語で以て表現できるようにさせる。


1の「勉強を好きにさせる」というので一番大切なことは、「わかるという錯覚」だと思います。

好き/嫌いというのは、感情ベース・主観ベースの問題です。

にも拘わらず、ヒトは「嫌い」とラベリングされた情報に対しては、脳の血流を低下させ、認知機能を低めます

これが、数学嫌いの数学力が低下し、国語嫌いの国語力が低下する原因です。

このように、数学力や国語力と言った「スキル」が、感情ベースである以上、最も大切なものは、客観的に測定される「できる度合い」ではなく、主観的に個々人が感じる「できる度合い」なわけです。


事実、数学の得手不得手は、小1の段階で、「友人と比較したときに自分がどの程度算数が得意だと思うか」という感情的・主観的な自分のレベル帯でほとんど決まってしまいます。

換言すれば、小1のときに、算数ボックスを使いながら解いたテストで、隣の人よりも低い点数を叩き出し、劣等感を感じた経験のある人は、数学力の伸びもイマイチになってしまうということです。

だからこそ、まずは「わかるという錯覚」が大事なわけです。

わかるという錯覚を契機に、その科目を好きになってもらい、好きな科目はよりできるようになるという好循環を生み出すことがベストなのかと思います。


さて、とはいえ小学校における「成績を点数化する制度」について、僕自身はそこまでこれを悪いものだとは思いません。

大切なことは、遺伝の影響が半分を占めるという「学力」という名の不平等ゲームで、不平等なりにも全体の学力を底上げすることが重要だと思うのです。


そう思うのも、次の2「自分の考えや将来像を言語で以て表現できるようにさせる」に繋がってくるのですが、中学・高校では、広く浅い文系的知識を得て、狭く深い理系的素養を身に付けることが重要だと思っています。

もっと具体的に言うならば、前者の広く浅い文系的知識は、文理区分問わず、全ての学生が身に付けるべきで、それは速読・多読・作文の3軸で獲得するべきだと思っています。

一方で、後者の狭く深い理系的素養についても、文理問わず全ての学生が身に付けるべきで、前者で得た「世界のおおざっぱな全体像」に対する理由付け、問の深掘りをするときのツールとして、圧倒的数学力や物理・化学で問われる仕組みを理解する力は活きてきます。


そのため、日本語を理解する力や、基本的な計数処理能力、初歩的な理科社会の知識は、思考力が発達するまでに点数化してでも、ある程度の水準までは持って行くべきだと思うのです。


しかし一方で、中学からは話が違ってくるように思います。

早い人であれば、中卒で働き始めます。

そのため、将来的なキャリアプランを設計し始めるのは、高校でも大学でもなく、中学でなければ本当はおかしいと思うのです。


理想的には、全員が高校をドロップアウトせずに卒業できるのが最高です。

しかし、そうも行きません。

「どのように人生を歩みたいか」「どういう価値観を大切にしたいのか」「将来何をしたいのか」

というのは、抽象的でもいいから中学の段階でもっと熟考すべき。


しかし、根本的に高校を中退し「中卒」と呼ばれるような人たちは、勉強さえ好きだったらそうはならなかった、という状況にあった人が大半です。

小中高での自殺率のトップに、「進路問題」「学業不振」「家庭不和」が上がってきているのを見ると、私は結局、

「勉強が好きだったら、進路も増えるし、学業不振なんか起こらないし、『授業』や『学校』が家庭からの逃げ場になるじゃん」

と、至極短絡的に考えてしまいます。

しかし、この短絡的思考もそこまで的外れなものではないと思っています。


では、ここまで、「勉強を好きにさせなければならない」とか「将来設計が大事だ」と言ってきたので、そのためのやや具体的な施策についてお話をします。


まず、理科・社会については、「広く浅く学ばせる」という方向にシフトチェンジしてしまってもいいと思います。

私が一番中学時代に違和感を覚えたのが、

炭酸水素ナトリウムを加熱すると、炭酸ナトリウムと二酸化炭素と水になる

というのを、化学式もロジックも一切与えられずにただ覚えなければならなかったときです。


これを「深い」というかどうかはさておき、一語文的な知識をただ詰め込む教育は、決して「広い」とは言えないでしょう。

まして、科学に対する全体像的な理解には繋がらない。


現状の理科社会の教育は知識偏重です。一語文的です。

ただ、単語を解答欄に埋めればマル。覚えてなければバツの世界です。


まるで、もうすでに世界地図が出来上がっているにも関わらず、「さあ、先生と一緒に伊能忠敬ゲームをしよう」と、一緒に海岸沿いを歩き、世界地図を作っていくようなもの。

目的もわからず、しらみつぶしに目の前の課題を解決していくことに、子どもたちは意義を感じるのでしょうか。


まずは全体像を見せてあげればいいのです。

興味を持たせればいいのです。

そのなかで「なんでこうなるの?」という子どもの疑問が浮かび上がったら、先生も「え、なんでやろうな。一緒に調べようで。」という姿勢で一緒に勉強すればいいんじゃないかと思うのです。


少し脱線しますが、書いている途中に思いついてしまったので書きます。

子どもたちに、問を深掘りしたり、原理を根本的に理解しようというモチベーションが欠落しているのは、「先生は100点幻想」があるからではないかと思うのです。

子どもたちが先生に「なんで、これはこうなるの?」と聞いたとき、先生はもしその回答が思い付かなかったら「そういうもんなんだよ」と済ませがちです。

この回答は便利で、「俺にもわからない」というメッセージを伝えずにその場をやり過ごせます。


ここに孕んでいる問題は、「教育者は潔白・完璧」という妄想を誰もが持っていることだと思います。

私もそうですし、高校教師・中学教師・小学教師、全員その学問分野の「プロ」ではありません。

知らないことがあって当然ですし、100点なんて取れっこありません。


そもそも、「俺にもわからない」と言っていい程度にしかお給料をもらっていないでしょう。責められる筋合いなんてない。


だから、「教育者も汚いところあるんだよ」というリアルの理解も必要なのではないかと思うのです。


ごめんなさい。脱線しすぎました。

今、「全体像」を把握しようという話でしたね。


まずは、知識の世界地図とも言える、「全体像」をザザっと把握させて、その中で興味のある分野を探求学習させていくのが、結局好奇心の向上につながるのではないかと思うのです。

そして、就職活動について考えてみても、大学3年生になった瞬間付け焼刃のように「課題解決能力」だとか「問を発見する力」とか「質問力」だとか言われ始めます。

取り掛かりが遅いのです。大切なことを付け焼刃で行い、大切でないことをひたすら詰め込み式に覚えさせるという状況になってしまっている。


そして、「全体像」が把握できない限り、何を問うて良いのかもわからないし、問の発見にも繋がらない。

間違ってはいけないのが、問の発見は問の制作ではないのです。

「数学の問題を自分で作ってみよう」というのは、問の発見ではなく問の制作。

それも大事なのですが、より最大公約数的に重要なのは、問の発見だと思います。

そして、手っ取り早く問の発見が出来るのが、理科社会に対応するところだと思うのです。


そもそも、こういったことを試みるためには、「勉強を嫌いにさせない」ことが前提になりますし、こういった試みが「勉強を好きにさせる」効果もあるでしょう。

要するに、相互反映的に、好循環を生み出していくと思います。



次に、2.自分の考えや将来像を言語で以て表現できるようにさせる。についてお話していきます。


しかし、ちょっとシャレにならんくらい長いので、次の記事に回しますね。

トイレにも行きたいし。



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