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「そういうもんだな」を疑ってみる


今日は授業のほとんどを雑談に使ってしまった。
というのも、「先生たちは俺らの気持ちとか本当に何にも考えてない!」と一人の生徒が怒り出して、それに周りも乗ってきたからなのだけれど。
(このクラスの子達との関係性が悪いわけではなく、着任して間もないのでまだ様子見されている感じである。あと私はまだ彼らと年が近いので、色々言いやすいのかもしれない)

今まで全く疑ったことのなかった疑問を、バンバンぶつけられて、私本当に何にも考えてなかったな、と考えの甘さに気づかされる。


彼らの主張の大半は、要するに

「俺ら(生徒たち)に要求することは、先生たちも守って欲しい」
「時代が進んで変化しているのに、校則が変わらないのはおかしい」

ということらしかった。


例えば、髪型。

ヘアカラーチャートで5番より明るいと原則校則違反となっているが、それよりも明るい先生もいる。(このヘアカラーの話は、パンテーンの『その髪どうしてダメですか?』の広告でも物議を醸していたように、私も疑問を呈する部分がたくさんある)
あとは、「高校生らしい髪型」として「ツーブロック」が禁止されているのも理解に苦しむと言っていた。


例えば、ネクタイ。

男子生徒たちは、結ぶ式のネクタイではなく、襟の両端にボタンがついていてそれを留める式の制服を着用している。そのため、第一ボタンまで締めなければ、ネクタイをすることはできない。
暑くなってきたこの季節、第一ボタンを閉めてネクタイは結構に過酷らしく、「どうして先生たちは『クールビズ』とか言ってネクタイしてないのに俺らはしないといけないの?そもそもなんのためにネクタイすんの?社会人になったらネクタイするけど、ここのはそもそも結ぶ式じゃないから練習にもならないじゃん」と言われた。そもそも社会人も学生も、ネクタイを着用する意味は何なのか。


例えば、敬語。

どうして敬語を使うのか、なんて考えたこともなかった。
今まで、「目上の人には敬語を使う」のは当たり前だと思って生きてきた。
そういう風に躾けられてきたし、小学生くらいで背伸びして敬語を習得しているとおばあさんに褒めてもらえたし、そんなの当たり前だと疑ったことがなかった。
では、「なぜ目上の人に対して敬語を使うのか?」
私は、自分より年上の人は、長い年月を生きている分だけ学びも深く知恵を持っているはずだから、敬意を表すべきだと思ってずっと敬語を使ってきた。

彼らは、バイト先では適切に敬語を使っていると言う。
しかし、教員に対して使うことはほとんどない。人を見ている、と言っていた。(このへん、賢いよね。小賢しいというか。)
私が「目上の人にはなるべく敬語で話して」と言うと、「先生たちは俺たちにタメ口なのにどうして敬語を使わないといけないんですか?先生たちが敬語なら敬語使いますよ」と言われてしまい、唖然とした。
うまく言葉を返せなかった。


例えば、先生という立場。

「先生の間違いを指摘すると、暴言だとみなされて指導される」と言われた。「昭和の先生は時代を逆行している!一生昭和で生きてる」とも言っていた。(これはただの悪口ですね…)
もちろん、脚色や受け取り方の差はあるのだろうと思うけれど、私が働いている中でも残念ながらこのような先生はゼロではないと思う。「先生だから」という理由で、自分の間違いをお認めにならない先生もいらっしゃるそうだ。
「教員だから」「先生だから」といって、偉いわけでもなんでもない。
彼らより少し先に生まれて、少し先に学んで、その学びを少しでも分けられたら、と思って教員をやっているので、私が間違っていると思ったらバンバン指摘して欲しいし(もちろん伝え方は考えて欲しいけれど)彼らに迷惑をかけたら謝るべきだと思う。威厳とか、そんなものより信頼関係の方が大切だと思う。
そもそも教師と生徒という関係性以前に、人間対人間なのだから、誠意を持って向き合うべきではないのか。そこに年齢は関係ない。


例えば、年功序列制度。

これまでの話の中で、「これは私もおかしいと思ってるよ」と返していくこともあった。
すると、「どうして年下は、年上に向かって意見できないんですか?意見したら怒られるからですか?先生だっておかしいと思ってるんだったらもっと年上の人に言ったらいいじゃないですか!」と言われた。
これに対して別の生徒が「一人でワーワー言っててもキチガイだなって思われるだけじゃん。一人じゃなんも変わらないよ。ちょっとずつ味方を増やしていくしかない」と言っていて、珍しくまともじゃん、と感心した。

確かに私は、前任校の頃から先輩に意見することはほとんどなかった。理由は、費用対効果が悪いからだ。
戦って一生懸命意見を伝える労力を思えば(とても疲れることを思えば)少々腹が立つようなことも素直に受け入れた方が楽だな、と思っていたのだった。
同期は逆に、おかしいと思うことはきちんとおかしいと伝えるタイプの人で、私はいつも彼を隠れ蓑にして、なるべく不満コストを払わずスルーしてきたのだった。それがいけなかったのかもしれない。


着地点が全然見つけられないのだけど、そもそも私は、彼らがこういうことを私(=教師)に言えることが、まず凄いなと思うのだ。
学生時代の私は、先生が言うことを聞いて、ただ従って、真面目に過ごしていれば怒られないから、怒られないために、思考停止してやり過ごして、ただ毎日通っていた。中身のない、空っぽな人間だった。自分の意見もなかった。周りにどう思われるか、嫌われないか、怒られないか、そればかり気にしていた。自分のことばっかりで、他人なんか見えてなかった。

今では少し改善されたものの、少しでも感情のコストを払わなくてもいい方へ楽な方へと流れている。長い目で見れば、良いことであるはずがない。
けれども今の私にはそれが精一杯なのだ。

彼らには、とにかく「わかってくれている」「理解してくれている」という安心感が必要だ。まだまだわからないことだらけだけれど、彼らの切実な訴えから、強烈なメッセージを受け取った。
彼らの指摘はもっともだな、と思うこともいくつかあって、平成から令和に変わって、学校をアップデートしていくための重要な切り口の一つになると思う。
これだけ反抗できる(というかきちんと不満を伝えられる)彼らの根底に何があるのか、まだまだ探っていきたいな、と強く思わされた1日だった。


余談だけど、
「黒板はお前が書いたんだからお前が消せよ」と言われたりして、絶句したりしていて、まだまだこの現場に慣れる日は遠そうだなあと思いつつ。
(つまり教員が書いてるから、教員が消すのが当たり前でしょ、と言う姿勢らしい)


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