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京急八幡のジョナサンで

本当にあったのはガストで、
僕らが実際に入ったのは隣の日高屋だった。
悲鳴が上がるほど揺れた飛行機に8時間半も座っていたせいで
まだクラクラする頭を引きずりながら、
日本の味を求めてラーメンと半チャーハン、餃子を頼む。
料理が出て来るまでのしばらく、僕は振り返る。
思えばこの1週間は、わがままで内弁慶な社会人男性と、没個性で無欲な学生男の、何も巻き起こらない平凡な卒業旅行だった。

旅行は3月11日から17日で、すべては出来たばかりで打ちっぱなしの壁が目立つ成田空港の第3ターミナルからはじまった。僕は小学校4年生くらいの身長ほどある特大のキャリーケースをもった男に会う。中身を聞くと、ガラガラだという。そう語る顔からは、隠しきれない、これから起こる楽しみへの期待がにじみ出ていた。
日本を発つ最後の食事は、たこ焼きとポークステーキ丼だった。ポークステーキ丼はにんにくたっぷりで食べ終わると口の中はすっかりにんにくに支配された。そこから飛行機で8時間半、僕はずっと口が気になってしまったのだった。
浮かれていたのは、僕もだった。つい外貨の両替をするのを忘れてしまった。気付いたのは保安検査場に並んでいるあたりのときで、戻るのは面倒くさかった。友人は余裕の様子で、聞くと僕が空港に来る前に、すでにWi-Fiを借り、両替も済ませていたようだった。出し抜かれたような気持ちになったが、焦るそぶりを見せたくなかったので、「旅行先でやるわ!」と強気で彼には言った。長い付き合いなので、おそらく彼も、僕が格好つけたことには気付いていたのかもしれない。

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彼とは大学1年の時からの6年間の付き合いだった。
最初の出会いは大宮キャンパスで行われたガイダンスだった。
高校を卒業し、すっかり友達の作り方を忘れた僕は、ほかのあらゆる新入生と同じように、友達ができるか不安だった。奇跡的に小中学校の同級生が同じ大学に進学することは知っていたが、すっかりその人とも疎遠になっていた僕は単独で、噂に聞く輝かしい”キャンパスライフ”に立ち向かわねばならなかった。
だがその頃の僕といえば、自意識過剰で卑屈。「俺なんか・・・」の権化で、浅野いにおと大森靖子とクリープハイプのDNAをぐちゃぐちゃに煮込んだような男で、ウェーイ系をことごとく忌み嫌っていた。それでも、友達は作らねばならない。こじらせてるとはいえ、一匹狼になれるほど賢くはなく、勇気もなかったのである。
そのとき、ガイダンスで出会ったのが、今回の旅のパートナーだった。
出会った、といえば聞こえはいいが、たまたま席が隣だっただけである。結果論でいえば運命的な出会いなのかもしれないが、そのときの心境を正直に言えば、”その場しのぎ”の一人だった。メガネで冴えないツラをしていた彼は、スクールカースト底辺臭が出で立ちから漂い、僕からすれば話しかけやすい”カモ”だったのかもしれない。ただ誤解を招くかもしれないが、僕が通う大学の半数以上が、”メガネで冴えないツラ”をしている。だから、彼でなければいけない理由はなかった。理由は本当に、”ただ隣にいただけ”だった。そして、彼にとってもそれは同じで、僕もその一人だった。おそらく、彼に受け入れられたのも、同族として見られたからだろう。

話を戻そう。

機体は意外とあっけなくオーストラリアに着陸した。僕は通路側だったため、平気でトイレにも行けて快適だったが、彼は窓側で、8時間半ずっとトイレを耐えた。さらに聞くと、リクライニングも倒さなかったと言う。彼は新幹線でも席を倒さない。席を倒すことで後ろにいる人から嫌なことをされることを怖がっていた。僕は爆笑した。その背景にある、彼の小中高時代の暗点を察したうえで、僕は爆笑した。

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オーストラリアは暑かった。もっといえば、機内の時点から暑かった。ついてすぐ、HISのツアー組が呼ばれ、僕らもその一員として仲間入りした。そこから1週間、ほぼ毎日と言っていいほど、顔を合わせる組が3組ほどいた。おばさんグループ、大学生男子グループ、大学生女子グループ。そして僕の友人は、機内でたびたびおばさんグループの巻き添えを食らう。

朝の7時ごろに着いた1日目は、ホテルで荷物をあずけ、ゴールドコーストから2時間ほど南に行ったバイロンベイで過ごした。(案外簡単に着いた。)

バイロンベイは僕が会社の先輩におすすめされた場所で、行ってみると僕にとっても最高だった。レコ屋はあるし、日本人は少ない。フォトジェニックなウォールアートが点在し、海は綺麗で、おしゃれなカフェやショップが多く立ち並んでいた。

最初のご飯はヴィーガンカフェで、友人はファラフェルサンド、僕はグラノーラをオーダーした。オーストラリアではクレジットカードが浸透していて、現金を扱っていないところが多いようだった。友人ははじめて食べるファラフェルサンドの味付けに不満げで、塩を大量にかけていた。薄味だとは思うが、彼の場合わからない。なんせ、白米に塩をかけて食うタイプの人間だから、どんな味でも塩をみるとかけたくなるのかもしれない。グラノーラはおいしかった。ファラフェルサンドよりもおいしそうだったので、彼のを食べようとは思わなかった。バイロンベイはゴールドコーストよりも暑かった。35度以上あったと思う。顔がヒリヒリした。歩きながら、涼しさを求めジェラート屋を探した。周りにはスーパーフードやヴィーガンカフェばかりが並んでいる。ヘルスコンシャスな人々が集まる街には、僕のような肥満はほぼおらず、みんなスタイル抜群だった。ジェラート屋を見つけ、一瞬ヴィーガン系を頼もうかと思ったが、我が肉塊を愛せるのは我だけだと言い聞かせ、マンゴーとラズベリーとレモンのチャレンジ・ザ・トリプルを敢行した。「ギルティ〜!!!」とミキティー!!ばりに心の中で叫びながら食べた。最高だった。

帰り道、少し不思議なことが起こった。
バイロンベイからゴールドコーストまではゴールドコースト空港を挟んで2時間、そのうち空港までがバスで1時間なのだけど、バイロンベイとゴールドコーストには時差が1時間あった。そのため、バイロンベイを17時に出ても、ゴールドコースト空港に着くのも17時なのであった。バスでの1時間が消えたことに、僕は勝手に興奮した。海外感を味わった。正直、ゴールドコーストの最初の印象は、「いや、ほぼハワイじゃん。ハワイに、豊洲の高層ビル足して、横浜のスパイス加えただけじゃん」だった。だけど、バイロンベイは格別で、れっきとした”海外”だった。

ゴールドコーストのホテルはマントラオンビューというHISお得意様ホテルで、アジア人ばかりがいた。僕は「アジア人の檻」だと思った。海外に来ると、アジア人と白人との(被害者側としての)人種差別意識がなぜか強くなってしまう。僕は”アジア人”がそんなに好きではない。これは単なる同族嫌悪に過ぎないのだが、白人はその概念がないらしい。いつも迫害する側だったせいか、ナチュラルに差別をする。(例えば、レストランでやけに白人を窓側のいい席に座らせ、アジア人を入り口に近い席に座らせるようなこと。実際に何回かこの旅でも経験した)それでも客室は豪華で、バルコニーに出ると、眺めもきらびやかなゴールドコーストのビル群が真正面に見える絶景だった。そこで僕にはやりたいことがあった。”アナザースカイごっこ”である。絶景をバックに僕と友人は、よく番組で使われるシガーロスの「Hoppípolla」を流しながら、”ここが僕のアナザースカイ、ゴールドコーストです”と真剣にやった。そのあまりの真剣さに、友人は笑っていた。それからというもの、毎日どこかでアナザースカイごっこをするのが、この旅の恒例となった。その動画たちのなかで、彼はどこか恥ずかしそうに、口角を下手くそに上げながら照れ笑いを浮かべている。

彼の下手くそに口角を上げる照れ笑いは、メガネをまだかけていた大学1年のときから変わらない。僕らは4月のガイダンス以降、いつの間にか行動を共にするようになっていた。でもそれは僕にとっては”続・その場しのぎ”のようなものだった。いつでも誰かに乗り換えてやる気満々だった。理由はいたってシンプル。彼はとてつもなくつまらない人間だった。何を話しても、凡打で打ち返してくる。趣味も特技も、今まで歩んできたものほぼすべてで彼と共通することはなかった。そんな彼に嫌気がさしていたが、彼の他に、大学で知り合いはいなかったため、仕方なく付き合っていた。それでも、事態は急に好転する。梅雨に入る前、まだ5月のちょうどいい気温が残っていて、雨の気配に憂う6月。大宮キャンパスの屋外にあるウッド調のテーブルで昼飯を食べているときだった。彼が突然おもしろくなったのだった。僕は焦った。2ヶ月間、あんなにつまらなかった人間が急におもしろくなったのだ。自分を信じられなくなりそうだった。でも、ちゃんとおもしろいのだ。スペードの3がジョーカーに勝ったような瞬間。なぜそう感じたか、理由は今でもわからない。いつかそれを彼に聞いたことがある。たしか「6月までは緊張していた」例の照れ笑いを浮かべながら言った。「かっこつけんな!まるで最初からおもしろい人間みたいに言うな!!」と僕は釘を刺した。6月のあの日に話した内容は覚えていない。それでもあの日を境に、僕らはよく笑うようになった。そしてその日その瞬間、僕はこいつとずっと大学生活を送ることになると予感したのだった。

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次の日、僕らは早かった。深夜2時40分に起きたと思う。僕らはゴールドコーストからエアーズロックに向かうため、朝6時の飛行機に乗らねばならなかった。3時15分にホテルをチェックアウトし、HISの添乗員に連れられブリスベン空港に向かった。そこには同じツアー客3組ほどがいて、みな同じように眠たそうにしていた。まだあたりは暗い。早朝、というよりかは完全に深夜だった。ブリスベン空港はゴールドコースト空港よりも大きい様子だったが、真夜中の空港は無機質で、必要最低限の灯りも、見えてはいけないものを隠しているように映った。僕らが乗るエアーズロック行きの飛行機は、観光客しかいないようだった。エアーズロック付近は住む場所ではないらしい。皆一様に、大きい荷物とガイドブックを持ち、多様な言語が飛び交っていた。

エアーズロック空港に着いたとき、まだ朝早いにも関わらず相当暑かった。到着ロビーで、僕は羽織っていた上着と長ズボンを脱ぎ、Tシャツに着替えた。エアーズロック登頂は全員がツアーでの申込みのため、ロビーでたくさんの観光客が添乗員の指示を待っていた。それからホテルごとに分かれ、バスでホテルに向かう。ほぼ砂漠地帯だった。添乗員いわく、準砂漠気候だと言う。雨も年に20mm程度とほとんど降らないらしい。バスに乗りながら、添乗員は今後の予定とこの土地の簡単な説明を始めた。エアーズロック周辺は先住民が管理し、政府に貸しているらしい。先住民はアナング族という。「アボリジニじゃねえんだ」と思ったが、添乗員は続けて、アナング族はアボリジニのなかの一派と語り、僕は添乗員に先読みされたようで恥ずかしくなった。何百回も同じこと聞かれたんだろうなと想像した。ホテルに着いても、早すぎずまだチェックインができなかった。エアーズロック周辺は観光用になかば強引に開発されたようで、行く場所はかなり限られていた。言うなれば砂漠の人工オアシス。ホテルとレストランと展望台、ギャラリーにお土産屋とスーパー、ラクダに乗れるファームがあるだけだった。

友人はラクダに乗りたがった。しかし、憧れはたった15分で終わってしまった。友人はラクダに乗るための練習や教習まで望んでいたようだったが、実際には調教されつくし、野性味ゼロの能天気ラクダたちにいきなり乗るだけだった。4頭ほどが綱でつながれ、先頭にカウボーイの女性が率いて100mほどを1周。カウボーイの女性は絵画に描かれたように固まった笑顔で、その顔にはハエがたかっていたが、ハエを気にしないのが印象的だった。エアーズロックで最大の敵は気温ではなくハエだった。とにかくハエだらけだった。血を吸うわけではないが、とにかく大量にいた。いくら手で払っても無駄だった。人の顔にハエがたかる様子を見て、全員がうんこみたいに見えた。

そのときはまだ、僕は友人の異変に気付いていなかった。
明らかに友人のテンションが下がっていると気付いたのは昼頃で、カンガルーのハンバーガーを食べていたときだった。彼はなんてことのない大きさのハンバーガーを残した。前日のバイロンベイの猛暑と機内での疲れがたたり、熱中症になったようだった。13時過ぎにホテルにチェックインし、友人はすぐに寝た。組んでいたツアーがはじまったのは、15時半を過ぎたころで、カタジュタ散策後にエアーズロックのサンセットを見るツアーだった。友人は無事に回復した様子で、日が暮れていくにつれテンションが戻っていった。散策中に、いくらハエがたかろうともテンションは高いままだった。

しかし、肝心のサンセットは僕らの想像を下回った。エアーズロックのバックに日が落ちていくのかと思いきや、エアーズロックと太陽の方向は真逆だった。サンセットよりも散策していたほうがよっぽど迫力があった。

ホテルに戻り、夕飯を食べた。友人にとって、昨日食べたご飯はハズレだったようで、海外旅行で外したくない気持ちのせいか、その日はやけに保守的だった。(昨日食べたもので1番おいしかったものは、レモネード味のアイスだったようだ。)彼は、無難なサーロインステーキをオーダーしようとしたが僕は止めた。そしてクロコダイルのステーキを勧めた。彼にこだわりはなく、あっさり僕の勧めを聞いた。のちに彼は語った。「あの日食べたクロコダイルのステーキがなんやかんや1番うまかったかもしれない」と。

彼にこだわりはない、と前述したが、それはご飯に限ったことではない。ありとあらゆるものに対してそうだった。この旅において、彼のこだわりを強いて言えば、空港のスタンプとエアーズロックの登頂とコアラの抱っこだった。ただ非常に残念ながら、そのすべてが叶わなかった。それもまた彼らしい。彼のこだわりのなさは出会った時から変わらない。彼は臆病でもあるせいか、こだわりを持てるほど、どの分野においても自信がないようだった。ただ、そのおかげで僕は彼に対して6年間のびのびと過ごせていたのだと思う。いつもわがままを言う僕と受け入れる彼。この構図は、大学1年のときから出来上がっていた。思うに、彼の圧倒的許容は、器が大きいというわけではなく、器そのものがないという感覚に近い。何かを測るほど興味がない、つまり、彼にとってこの世界のほぼすべてがどうだっていいようだった。音楽はベストアルバムを聞き、お土産はネットで評判のいいものを選ぶ。この世界を決して自分で測ろうとしなかった。事実、この旅で自分用にお土産を買うことはなかったと思う。「自分が欲しいものがわからない」そう彼は言いながら、自分をないがしろにして、表裏一体、誰かをいたわっていた。欲しいものばかりな僕は、ハナから手放して生きている彼が羨ましかった。ある種嫉妬しているのかもしれない。6年間、僕が何度イジっても彼は自分のこだわりを見つけることはなかった。彼を見ていると、まるで僕が個性的な人間に見えるときもあった。音楽も映画もテレビもラジオも小説も好きな自分に、彼というフィルターを通して酔っていた。でも、そんな痛々しい僕のことを彼は知っていてイジってきた。関係は理想的だった。僕は思う。お互いにイジりあうことができてこそ、信用できるのだと。一方通行のイジりはいじめなのだ。双方向こそ正しい関係性なのだ。この旅で彼に言われ、いまだに刺さっている言葉がある。

「で、結局お前は何がしたいんだっけ?」

寝る前の、ふとした瞬間の彼が放った言葉に、僕は数秒間何も言えなかった。
今も正しい答えを返せないでいる。そのときはどう答えたのだろう。僕の急所を真芯で捉えたその言葉は、頭の中の観覧車を回り回って、まだ降りられないでいる。

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次の日の朝も早かった。5時に起きてエアーズロック登頂と日の出を見るツアーだった。前述した通り、エアーズロックには登れなかった。

強風だった。1ヶ月のうち9日ほどしか登れないらしく、僕らは運がなかった。そもそもエアーズロックはアナング族の聖地らしく、登りたがるのは日本人ばかりだと言う。代わりにエアーズロックの周りを散策した。

たくさん歩いた。日の出もそうでもなかった。二人の意見として、”昨日のカタジュタ散策の方がおもしろかった”という意見で合致した。昼頃にホテルに戻り、僕らは5つ星ホテルの夕ご飯ビュッフェを予約して一旦寝た。昼飯は昨日の夕ご飯と同じところで食べた。ふたりともパスタをオーダーした。おいしかったが、麺にコシがまるでなく、ゼロデンテだった。

その後、一通りお土産を買い、休憩し、夕食。5つ星の夕食は、最高ここに極まれりの至れり尽くせりの指原りのだった。ただのビュッフェではなく、オーダーも受け付け、オープンキッチンでシェフがその場で調理してくれる。エンタメ〜!!!とIKKOの感じで僕が友人にいうと(嘘)、友人は、いたれり〜!!と返してきたので(大嘘)、僕も負けじと尽せり〜!!と返した(超嘘)。僕はカンガルーのステーキを食べ、豪華なハムを食べ、和牛のステーキを食べ、サーモンのソテーを食べ、大量の生牡蠣を喰らい、モクテルのメロンクラッシュをがぶ飲みした。そして最後に、チョコレートフォンデュを4回ほどおかわりした。マシュマロがチョコにコーティングされていく姿を見て、普通の女子大生みたいに「わ〜!!!すご〜い!!!」と叫んでいた。

ふと自分のお腹に目をやると、そこにはみぞおちから腰にかけて、くっきりと脂肪でできたエアーズロックが広がっていた。唯一本物と異なるのは、僕のエアーズロックの頭頂付近はやけに黒い森林が多かった。ホテルに戻り、満足げな友人にお腹を見せると、「ちゃんと麓の腰まで黒い道もあって登りやすそう」と言われた(これも大嘘)。その後、旅行あるあるの深夜なぜかダラダラしちゃうよねタイムの前に彼は寝てしまった。なので僕は小説を読んだ。石田衣良の「スローグッドバイ」は傑作だった。そして次の日、僕たちは昼頃ゴールドコーストに戻ったのだった。

僕は「スローグッドバイ」を彼に貸した。普段小説を読まない彼も好きになったようで、小説に出てくる登場人物の名前を旅行中何回か口にした。石田衣良の「スローグッドバイ」は簡単に言えば出会いと別れのラブストーリーの短編集だが、ゼロ年代初頭の作風と石田衣良の捉えどころない、それなのにすっと核心をつくロマンチックなセリフ回しが特徴的で、僕は文庫本の表紙も好きだった。(現代的な言葉で片付けるなら、表紙も内容も”エモい”。)タイトルのスローグッドバイとは短編の1つで、別れを決めたカップルが、最後に豪勢なデート=「さよならデート」をするというあらすじだ。別れが決まっていて、どうあがいても結末は変わらないというストーリーに、僕はこの旅行を重ねていた。

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昼過ぎにゴールドコーストに戻り、2日前と同じホテルにチェックインして、僕らは今日1日を買い物にあてることにした。ただ、誤算はショッピングセンターの営業時間で、ゴールドコーストのショッピングスポットの多くは営業時間が17〜19時とかなり短い。市内で有名なショッピングセンターであるパシフィックフェアは巨大なららぽーとのようで、ついたのは16時近く。すべての店舗を回るのは不可能だった。そのため二人で行動するのではなく、バラバラになり、時間を決めて落ち合うことにした。僕は前日のエアーズロック散策のせいで赤土だらけになったスニーカーを新調しようと決めていた。2時間が経ち、僕らは広場に集合した。彼は片手に赤い買い物袋を抱えていて、ご陽気だった。彼女へのお土産のようだった。こんな絶好な機会でも、友人は自分のためではなく、誰かのために時間を費やした。それを見ていた僕の腕には、僕のためにしかならない買い物袋。そんな二人を罰ゲームのような雷雨が襲った。サンダーストームと呼ばれる、日本でいうゲリラ豪雨だった。僕らは相合傘をして駅まで戻りホテルへ帰った。

その日はホテルのアジアンレストランで夕食をとった。概ね美味しかったが、最後にメニューで気になった餃子をオーダーした。オーストラリアの餃子が少し気になったのである。だが、その餃子は僕らが知っている餃子ではなかった。圧倒的なゲロマズ。人生でズバぬけてマズい餃子を食べた。食べた瞬間、吐きそうになった。それまでのおいしかったすべての満足感をその餃子ひと口が台無しにした。餃子を食べたというより、餃子に何かを食べられてしまったような喪失感が二人を包んだ(餃子だけに)。うなだれながら僕らは部屋に戻り、餃子の記憶を上書きするようにすぐにチューインガムを食べた。そして明日、最終日の予定を考えた。動物園に行くか、遊園地に行くか。友人はどちらにも行きたい様子だったが、どう考えてもそれは不可能だったので、結局コアラの抱っこを最優先となり、動物園に行くことにした。

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彼といるとき、ほぼすべての決断は僕が最終的にしていた。彼の優柔不断さな性格と、僕の即決的な性格は、凸凹が合うように合致していて、大学で過ごしていたときから、何かの判断で揉めたことはなかった。迷っても僕が決めるし、僕が決めたことには彼はあまり口を出さない。そして、明らかに迷わないことがあればどちらかが勝手に決めていた。ただ唯一、僕が提案したことで彼が断ったことがある。それは、僕の大学院中退だった。

僕は大学での勉強が嫌いだったわけでなかった。ただ、圧倒的にプログラミングが苦手だった。その不得手に気づいたのは大学入学後わずか半年で、そこから必修であるプログラミングの講義はいつも誰かに頼っていた。だから、正確に言えば、プログラミング以外の勉強は嫌いではない、となる。しかし、高校時代に何を思ったか情報工学科に入ってしまったことで、いずれ研究でプログラミングすることからは避けられないでいた。そして予見していたとおり、研究室が始まる3年次から僕はだんだん大学が嫌いになっていった。研究室にいた先輩も嫌いだった。「先輩」というポジションに踏ん反り返る高圧的な男ばかりで、僕はいつも低気圧ボーイだった。研究室に入って以降、友人との会話のほとんどが先輩の愚痴になった。プログラミングができるようにならないと!とは思っていなかった。どうにかなると踏んでいたのだろう。そして居場所を求めて逃げるように、僕はバイトに熱中した。レコ屋でのバイトも研究室に入る頃には、お店のなかである程度を任せられるようになっていて、自分がレーベルと取引を行うこともあった。それが自信になっていき、僕は大学3年の時点で、情報工学科である自分を捨て、音楽業界に身を投じようと本気で考えていた。大学を卒業し、メーカーや大手ではなく、自分の好きな音楽レーベルに就職したいと思っていた。そんな自分にとって、日が経つにつれ大学での研究は足かせになっていった。兄が大学院に行っていた関係で、なぜか僕は勝手に大学院にまで行くことを想定していたが、大学4年のときには、「大学院でプログラミングするので、大学時代は分析に当てます!」という荒技を見出し、「ぜってえプログラミングしねえ!!」と心に決めていたのだった。そして大学4年の3月、大学院入学が間近に迫るある日、豊洲駅近くの蕎麦屋で僕は友人に提案したのだった。「一緒に就活して、大学院を中退しないか?」大学に籍は残しながら就活に成功したら大学を辞める、失敗したら研究室に戻る。その頃には嫌いな先輩もいなくなっている、と説得したが彼は悩んだ。当たり前である。いきなりそんなことを言われて了解する方があたおかだ。だが、プログラミングが苦手なのは彼も同じだった。研究室が嫌いなのも一緒だった。大学3、4年は本当に二人にとって辛かった。僕ら二人の未来があの研究室にあるとは到底思えなかった。だから、僕は彼がなんと言おうと、就活することを決めていた。彼は悩み、悩み、時間をくれと僕に頼んだ。そして気付けば時は進み、結局僕は就職し、彼は大学院で2年を研究に捧げた。さっき僕は彼のことを優柔不断を話したが、それは裏を返すと、現状に我慢ができる力がある、ということ。僕は決断が早い代わりに、現状に耐える我慢ができない。彼と僕は大学でいつも二人一緒だった。気持ち悪いと言われるかもしれないが、花より男子の道明寺的なパンチラインで言えば「運命共同体」だったし、なんなら土星のペンダントも実際に見えてはいないが二人ともいつもつけていたと思う。(気持ちわりいな!!)そんな僕にとっても、彼にとってもどちらかが欠けることは死を意味する。僕がいなくなってからの2年間をあの研究室で耐え抜いた彼の地獄は、いくら想像しようとしても想像しきれないものがある。逆の立場だったら僕は研究室どころか友人まで憎んでしまいそうなところだ。「裏切り者!」「一人にすんな!」「どうしてくれんの!?」だが彼はどれひとつ言わず、やさしく僕を見送ってくれた。だからこそ、彼には申し訳ないことをしたと思っているし、彼の両親にも謝りたい気持ちがある。今でもその罪悪感は消えることはない。ほっとしたのは彼が目標である大手に就職できたこと。そのおかげで少し肩の荷が下りたような気がした。

もともと僕と友人で目指す場所は違っていた。僕は大手志向というよりかは好きなことができる場所を望み、彼は強く大手志向だった。僕のあの提案を受けていたら、たしかに大手には行けていないかもしれない。彼には将来を見据える力があったとも言える。ここで2年我慢すれば大手に行けると考えたのだろう。ただ、彼はあまりに我慢しすぎていると思う。小中高でも決して目立つタイプではない、というか話を聞く限り、木陰のような存在で、子供の時からずっと彼は我慢をしている。我慢に対する経験、そして自信を感じてしまう。唯一の救いは、ディズニーでのバイトで、我慢する必要がない場所だったのだろう。それはそれは彼を幸せにしていた。その幸せな話を聞くのが、僕は好きだった。

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最終日、初めて僕らはゆっくり起床した。11時ごろだっただろうか。外は雨が降るか降らまいかのどん曇りだった。バスで動物園に向かうと、すでにコアラの抱っこ目当てに大行列ができていて、受付で今日はコアラ抱けないよ!と言われたので入園をキャンセルして、お土産だけ買って帰った。

そこからゴールドコーストをはじめてゆったりふらふら歩いた。電子パネル式が気になり、数年ぶりにマクドナルドに入ってみたり、ストリートで子供に楽器を演奏させ、子供を餌にお金を巻き上げようとする母がいたり、サーファーズパラダイスと呼ばれる海辺で写真を撮ったりして、(サーファーズパラダイスの門の写真を撮っていたら、たまたまそこを通っていた欧米の女性がジョークでポーズを決めてくれた。でもお礼どころかビビって何も言えなかった)UGGの本店に行ったりしているうちに、曇りはいつの間にか晴れに変わっていた。

夕方の海は綺麗だった。僕と友人は海パンに着替え、とうとう海ではしゃいだ。24歳の男二人で海ではしゃぐ姿は海外でしか見せられない姿だった。波は高く、引き返す力も強かった。足の周りの砂が一斉に波に連れ去られていく。「帰りたくないな」と思った。価値観が変わったわけでも、自分探しがどうのとか、悩みが吹っ飛ぶとかそんなことは何1つ起こらなかったが、ただぼんやりとこの海をずっとみていたいと思った。でも日は暮れてしまう。どうしたって明日はやってくる。

僕らはホテルに戻って、ベトベトの体を乾かしてから、夕食へと向かった。向かう途中、とてもかわいいチョコレート屋に出会った。San Churroというお店で、日本にはまだないお店だった。オレンジ色の内装がかわいく、見つけたときは興奮した。そして最後の晩餐は、ふらふらしているときに見つけた、いい感じのレストランだった。テラスもあって、中はバーっぽくなっているようだった。お店の名前は「White Rhino Bar and Eats」入ってみると、女性シンガーが生でTLCのNo Scrubのカバーを披露していた。正解だった。ご飯もとてもおいしかった。デザートも最高だった。会計時、店内に白いサイがいたので僕らは記念にこの旅初となる二人写真を撮った。僕はおいしすぎて高揚していた。ホテルに帰っている道中でも、「あのお店を雰囲気だけで選んだ俺天才すぎない?????奇跡レベルでうまかったろ?????」と自画自賛が止まらなかった。彼は笑いながらうなづいていた。

最後の夜、僕らは少し感傷的になっていたのかもしれない。明日のチェックアウト用に荷物を片付け、ベッドに横になる。友人もなかなか眠れない様子で、とりとめのない話をした。でも、1つも覚えていない。それでいいんだと思う。覚えていないなら、また聞いても楽しめるし。そう思いながら、僕は目を瞑った。(いびきをかきながら)明日はとうとう帰国の日だ。僕はまどろみのなか、僕と彼について改めて考えてみた。

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僕らは何もかもが違う。対偶だ。
僕にはこだわりがあるが、彼には何もない。
僕は我慢できないが、友人は我慢ばかりしている。
僕はベストアルバムはあまり聞かないが、彼はベストアルバムばかりを聴く。
僕は自分のためにお土産を買い、彼は誰かのためにお土産を買う。
僕は中小志向だが、彼は大手志向だ。
僕は写真が苦手だが、彼は写真を撮られたがる。
僕はディズニーがそんなに好きではないが、彼は大好きだ。
僕はその場しのぎだが、彼は用意周到だ。
僕は人ごとに態度を変えるが、彼はいつでも彼のままだ。
僕はひとりでいるのも好きだが、彼は誰かとずっといることを望む。
僕はイライラが顔に出やすいが、彼は負の感情が表に出にくい。
僕はスポーツが好きだが、彼は大嫌いだ。
僕は世の中を穿って見てしまうが、彼は純粋だ。
僕は田舎の成金育ちだが、彼はシティ派のおぼっちゃまだ。
僕はトンカツとご飯を一緒に食べるが、彼はトンカツを食べてからご飯を食べる。(おかずを食べ終わった余韻で飯を食うスタイルを僕は余韻喰いと呼んでいる)
僕のしょんべんがあっという間だが、彼のしょんべんは僕のクソよりも長い。
僕はお土産を買うときは感覚だが、彼はレビューサイトを見てから買う。
僕は鼻の下のヒゲが薄いが、彼は鼻の下のヒゲが濃い。
僕は兄弟との仲はいいが、彼は最悪だ。
僕は母親と会話はしないが、彼はいつもしている。
僕はうんこをしたあと手を後ろにもっていてティッシュで拭くが、彼はももの間からうんこを拭く。

彼と僕の違いはあげればキリがない。
それでも僕らは一緒だった。

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17日の日曜日、18時30分ごろ、僕らは成田空港に到着した。
まずかった機内食を払拭するために、改めて夕ご飯を食べることにする。
幸運なことに、僕らは同じ路線沿いに住んでいた。
どこで飯にするか話し合い、冗談で僕が「もうファミレスでもいいけどね」というと、「じゃあ京急八幡でよくね?ジョナサンあったよたしか」そして行き先は決まった。

「じゃあ、京急八幡のジョナサンでいっか」

でも、本当にあったのはガストで、
ぼくらが実際に入ったのは隣の日高屋だった。
料理が出てきて、1週間ぶりにラーメンをすする。
格別うまいわけではないが、それで十分だった。
都営新宿線で僕らは帰った。途中、僕らは数年ぶりくらいに泣くほど笑った。
そして先に僕の最寄駅に着く。
「じゃあ、また」あっさりと言って別れた。
別れたあと、ふと思った。
この言葉に続きあるとすれば、「じゃあ、またいつか」なのかもしれないなと。
そう考えるとやはり、この旅行が「さよならデート」だったのではないか。
大学を卒業し、違う職場、違うコミュニティ、違う属性に身を置いたとき、僕らは互いを必要とするのだろうか。
えてして、別れとはそういうものだとどこか聞いたことがある。
劇的な別れよりも、なんてことのない別れが、最後になる。
スローグッドバイという言葉の意味が、わかったような気がした。
はっきりとした決別ではなく、お湯がだんだんと冷たくなっていくような決別。

だからあえて、ここで続きを言おうと思う。
未来を、”いつか”なんて曖昧な言葉に託すのはやめよう。
「じゃあ、また、母の日が近くなったら。あのららぽーとで」

卒業おめでとう。

P.S.気持ちのいい一本グソが出たとき、写真を撮りたくなる気持ちだけはお互い忘れないでおこうな。



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