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「星在る山」#20 自分の山を登る(最終話)

(4424字)
こんばんは。ベストフレンドというお笑いグループでボケをしているけーしゅーです。


今回で、この謎の散文も最終回です。
この話はぼくが高3の時のただの実体験です。
その極めて個人的な話を、あの手この手して書いたつもりですが、誰でも楽しめるものにするのはかなり難しかったです。
最初から最後まで読んでくれた恐らく4〜5人の皆さんには本当に感謝しています。
これからもその皆さんのために、何かしらを書き続けたいと思います。
今回も4400字超えの長文章になってしまいましたが、最終回なのでお許しください。
これで当分、2018年8月22日のことを思い出さずに過ごせそうです。
それでは、続きをどうぞ。




*20



女湯の''のれん''をくぐる口実ボケを考えながら、温泉施設の通路を進んでいた。


「まって今日8月23だろ?祝日だ。混浴の日 
 だ!」
「ごめんね。ちょっと、妹が溺れてるらしい
 から、兄ちゃん行ってくるわ」
「わり、おれ風水的に今日はこっちの方角に
 しか進めないのよ。ラッキーカラーも赤」
「ここは手分けしよう。俺は一人でこっちに
 進む。俺は大丈夫だ。お前ら、死ぬなよ」
「俺実はさ、昨日コナンとおんなじ薬飲んで
 7歳になってんのよ」
「ポケモンGO開いてみ。女湯にダークライ
 いる」


この、のれんの前のひとくだりは、高校の男が友達と銭湯に来たら必ず行われる恒例行事で、恒例の儀式だ。
浅はかな理由では、あの''のれん''の向こう側に立ち入ることは許されない。

「お前らそっち?俺ちょっと中で妹が...、
 あ、すいません!」
「.......?」


中からちょうど女性が出てきたので、すぐさま踵を返し、青いのれんの方へ駆け込んだ。
笑いが起こる起こらないよりも、ちゃんとやることが大切なのだ。
''儀式''だから。


''男湯''の中には大きな湯船が一つと、ぬるま湯の湯船、座れるジェットバスタイプの湯船、それからサウナと水風呂があった。
もちろん露天風呂もある。
そして、この露天風呂がとにかく最高だった。
露天風呂には白い湯の湯船、熱めの湯船、寝転び湯、奥には存在感のないツボ湯が二つあった。 
夏の平日の朝っぱらから風呂に入る人などいるはずもなく、その日はほとんど貸切状態だった。
ぼくと筋トレ男は、子供が美術館の絵を観る速度で屋内の大きな湯船に身体をざっと湿らせると、すぐに露天風呂へと向かった。

まずは寝転び湯へ向かい、仰向けになって寝た。
身体の背面の温もりと、正面の冷ややかさがちょうど良い。
これは寝れる、と思った。
目を閉じてから再び意識が戻るまで、恐らく20分ぐらいが経っていたと思う。
また死んだように眠ってしまっていた。
他の3人はもう上がったのか、どこにも見当たらなかった。
隣に大の字で寝転んでいた筋トレ男は、やはりそのまま熟睡していた。
サンダルで山を超えた男の疲労に共感したので、男を起こさず、一人でツボ湯へ向かうことにした。

実を言うと、(実を言わなくても)ぼくはこの''ツボ湯''が、見つけると必ず入るほど小さい頃から大好きだった。
家の風呂とそこまでサイズや見た目は変わらないはずだが、なぜかぼくを惹きつける''ロマン''がそれにはあった。
貸し切り状態ということもあり、勢いよくツボの中へ入ると、ザッバーーーとツボから信じられないぐらいの水が溢れた。
その溢れ出る水の量に、自分の物質的な成長を感じる。
湯船から溢れるこの水の音を消す音姫のようなものがあったら、女湯でウケるかもしれない。
こんなことばかり考えるようになったが、精神的には成長していないように思う。
ぼくはいつものように、マグカップに引っ掛けられたドリップコーヒーみたいに、両脚と両腕をツボの縁に引っ掛けて入浴した。
ツボと自分のサイズ感はぴったりで、寝転び湯より寝やすかった。
雲ひとつない朝の青空の下で、定期的にツボに足される水のチョロチョロという音を聴きながら再び目を閉じた。

ツボ湯では眠らずに、目を閉じながら昨夜あったことを丁寧に思い出そうとしてみたが、まだ自分と体験との距離が近過ぎて上手く思い出せなかった。
というより、この現実の世界とのギャップがあまりにも大きく、全てフィクションのように思えてならかった。
なので意識は、もっと確実な出来事を求めて記憶を勝手に遡っていき、そして、ある所でピタリと止まった。
それは、今からちょうど一年前だった。
一年前、ぼくはまさに今と同じ''このツボ湯''に居た。

西武秩父駅の「祭の湯」という温泉施設に来たのはこれが初めてではなかった。
高校2年の夏休みがもうすぐ終わる頃、バスケ部の友達と高麗の日和田山に登り、帰るまでもう少し時間があったので、当時オープンしたばかりの「祭の湯」に行ってみようという話になった。
当然初めて来たその時も、ぼくは屋内の湯船には興味を示さず、露天風呂の''ツボ湯''を見つけて飛びつくように入浴し、同じような体勢でぼーっと湯に浸かっていた。
そして、ふと、この''ツボ湯''の中で、「バスケ部を辞めよう」と決めたのだった。
辞めるべく明確な理由があった訳ではない。
ただ、ふと、そう思いつき、実際にその1週間後にぼくは部活を辞めていた。

これは、世界にとっては、なんら意味を持たない小さなことにすぎないが、自分にとっては、ここから''何か''が始まり、そしてまた''何か''が終わっていくような気がしたのを覚えている。
あれからちょうど一年が経ち、受験期にも関わらず、一年越しに再びこのツボ湯にいるという状況が、妙にその''何か''を暗示めいているように思えてならなかった。
そうか、きっと''この旅''はあそこから始まっていたんだ。
あそこからぼくは、本当の''自分''が始まったと同時に、''何か''から堕落した。
今までの自分が積み上げてきて、それなりに出来ていたはずのことが急に難しくなった。
目の前のやるべきことよりも、自分の頭の中のことの方に関心を持つようになった。
それを端的に表すなら、''自分は「普通」が下手になった''ということなのだろう。
きっと自分はこの先も、具体的でたった一つの''山頂''を目指し、舗装され整備された山道を歩くことはなく、この旅のように、''星''のような決して手の届かない''何か''を目指し、延々と寄り道を繰り返しながら、''自分の山''を歩いていくのだろう。
その山にきっと山頂はないし、そもそも星を見つけられるとも限らない。
自分より獰猛な動物が現れたら、懐中電灯の明かりが消えてしまったら、身体と精神が完全に疲弊し、山を上る理由が分からなくなってしまったら、そんな幾つもの未然な不安が常に頭をよぎる。
そして何より、''天王山''を登ることができた多数の人間達から、表面上は''心配''と見せかけて、実は全く心も思考も通っていない「お前は間違っている」「お前はこうした方がいい」といった類の言葉を浴びせ続けられるのかもしれない。


「おう、体いてー、おれ何分ぐらい寝てた?」
「もう40分ぐらい経ってると思うよ」
「マジで?寝ちゃったわ。お前はここで寝て
 たの?」
「ううん、女湯の声聞いてたけど、一人の声
 も聞こえねーわ」
「そうか。皆は?」
「知らね。たぶんもう上がったんじゃない」
「じゃあ、そろそろいくか」
「そうだな」


だけど、そんなもの全て心底どうでもいい。
山を登ることは、正しいか、間違っているかではない。
ただ、そこに好きが在るだけだ。
ぼくが好きなのは、''山を登ること''それ自体
だ。
そこに確かに道のりが在って、自分が在って、隣には胸筋を無駄にパンプアップさせた同類(同志)が居る。
星なんて、在っても無くてもいい。
この''道のり''と、''自分''と、''数少ない同類''に何よりもの価値があるのだ。
だからこの先も、この旅のように生きよう。
100円の食パンをエネルギーにして、不安を笑いに変えながら、体力尽きるまで自分の足で''自分の山''を登ろう。
それでもどうしたらいいか分からなくなったら、その時はまたこのツボ湯に来て、一から考えよう。
そう思って、ぼくは勢いよくツボ湯から上がった。

「おまたせー」
「遅かったね、何してたの?」
「いや、こいつが寝転び湯で朝立ちさせて
 1時間弱も寝やがってたからさ」
「お前もツボ湯で夢精しながら、女湯の声
 聞いて気絶してただろ」
「仮眠で夢精する訳ねぇだろ」
「まぁでもこれは帰ったらみんな今日は勉強 
 せずに爆睡じゃない」
「うん、今日は無理だね」
「今日はできないね〜」
「何が今日はだよ。いつもしてねーだろ」
「お前もな」
「じゃあ、早く乾杯しようぜ」
「わりわり、買ってくるから待ってて」


高校の男にとって、銭湯後のコーヒー牛乳も大切な''儀式''だ。

「え、みんなコーヒー牛乳?筋肉に悪いから
 やめな」
「うるせーよ」
「おれは、筋肉とか関係なくシンプルに牛乳
 派だから。こいつと一緒にしないで」
「はい、じゃあまあ、とりあず無事帰って
 来れて良かったです」
「はい!」
「まぁとりあえず、文化祭まで残り少ないです
 けど、皆でこの映画を面白い映画にしま
 しょう!!おつかれさま!かんぱい!」
「かんぱい!」
「かんぱい!」
「かんぱい!」
「かんぱーい!」




高校3年の夏休み明け2018年9月16日、受験を控えた、ぼくを合わせて5人の男達は、文化祭当日を迎えていた。
視聴覚室には、ぼくらの映画を観ようと既に70人程度のお客さんが集まっていて、他クラスの友達はもちろん、後輩、カップル、誰かの兄弟や姉妹と思しき小さな子供、誰かの親御さんと思しき大人、そして先生方までもが、揃ってぼくらの映画が始まるのを待っていた。
文化系リーダー男の合図で、筋トレ男が部屋の明かりを消すと、サイコパス男が震える指をパソコンのエンターキーの上に乗せた。
制作期間約5ヶ月。
ぼくらが作った映画は、無事に、スクリーンにはっきりと映し出された。
その現象をこの目で確認できただけで、5人の男達は思わず顔を見合わせ、もう全てが終わったかのような安堵した顔を浮かべ、感動を共有し合った。

すると、客席から笑い声が聞こえた。
それも数人の個別的な笑い声ではなく、様々な声色の笑い声が重なり、高波のようにどっと押し寄せて聴こえてきた。
ぼく達は直ちにその表情を確認した。
暗闇の中だったが、スクリーンの明かりに照らされて、''その顔''は鮮明に確認できた。
みんな笑っていた。
仲の良い友達も、知らない後輩も、カップルも、小さな子供も、見たことない大人も、先生も、みんな笑っていた。
何もかも違う場所から始まり、何もかも違う日常を送り、何もかも違うことを感じて生きてきた人間達が、ほとんど同じように口を開け、目尻に皺を寄せ、油断したような間抜けな声を漏らし、不恰好に顔を弛緩させている。
その沢山の嘘のない表情を見つめながら、やはりぼくは、この一瞬の顔を一生信じてみようと思った。

(完)





帰りに食った冷やしチャーシュー麺



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