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小説『夏のかけら』-試し読み

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 五月の初旬、石田達也の携帯電話に『バー・エリック』の店長を務める、山中虎太郎から連絡があった。
 虎太郎は高校時代のクラスメイトで、達也の親友であった。ひさしぶりに聞く虎太郎の声色には弾むような響きがあり、達也は元気そうな印象を受け取った。
「月曜の七時ごろ、俺の店に来いよ。住宅のリフォームの件で会わせたい人がいるんだ」
「月曜日の夜……たぶん、大丈夫だと思うけど。相談に来る人って、年配の人?」
「いや、若い女だ」
「若い女性かぁ……。誰かと一緒に来るのかなあ」
「さあ、どうかな。そこまでは訊いてなかった。ところで最近、リフォームの仕事は忙しいのか? たまには、顔ぐらい見せろよ。店に来なくなって、一ヵ月以上になるだろ。水臭いやつだなぁ」
「突貫工事でバタバタしていて、依頼の図面もたまっていたから、忙しかったんだ。最近、ようやく落ち着いてきたよ。なかなか、店に行けなくてごめん」
「そうか、別に気にするなよ。忙しいとは思っていたけどな。まぁ、詳しいことは、店に来てから話すから……」
 やり取りの終わりに、「達也、月曜日に待っているからな」と言い残して、虎太郎は通話を切った。
 高校を卒業してから二人は別々の私立大学に進学した。それから十二年の歳月が流れても、連絡を取り合う仲だった。
 月曜日は昼過ぎからにわか雨が続き、夕方から本降りになった。

 駅前の雑居ビルに入って、達也は傘をたたんだ。水色の作業服の肩あたりが濡れている。鞄からタオルを取り出した達也は、上着を何度も拭った。
 二階に上がると、通路を挟んで飲食店の扉が並んでいる。『バー・エリック』の店は、並びの奥に構えていた。
 店の派手な表札を前にして、達也は木製の扉を押し開いた。

 ダウンライトに照らされた店内は薄暗い。
 だが、正面に見える十席のカウンターと奥の酒瓶が並ぶバック棚だけは、間接照明の演出で、異様なほどの赤色に染まっている。赤い色合いは、虎太郎の好みのようである。
 カウンターで作業をしていた虎太郎は、振り向くと目を細め、口もとをほころばせた。
 達也は、ビニール傘を出入り口のそばの傘立てに差し込み、カウンターに近づいた。
 カウンターに座ってみると、赤色の照り返しは、それほど眩しいということはない。
「達也、ひさしぶりだな。雨の中、ごくろうさん」
「いや、お客さんを紹介してもらって助かるよ」
 カウンターの丸椅子に座った達也は、虎太郎をまともに見た。
 細身の虎太郎が着用している白いドレスシャツは、第一ボタンがはずれている。小麦色の肌は襟元まであらわになっていて、金のネックレスが、胸元に彩りをそえている。
「達也、何にする?」
「アイス・コーヒーでいいよ」
「お客さん、八時頃に来るからな。しっかりやれよ」
 虎太郎は、コースターにさりげなくグラスを置くと、真顔で言った。
「うん、相談内容をよく聞いてみるよ」
「お前に仕事を回してやろうと思って、必死で宣伝してやったんだからな」
「恩に着るよ。若い女の人って言っていたけど、いくつぐらいの人?」
「さぁ、歳までは訊いてなかったなぁ。たぶん、二十六、七ぐらいじゃないか」
「そんな若い人の相談で、大丈夫なのか? 相談だけで終わりそうな気がするな」
「達也は心配性だなぁ。まあ、俺も話を聞いたときに思ったよ。けどな、その子の表情は真剣だった。だから、いい加減な話でもないと思ったんだ。その子は、二ヵ月ほど前から月曜日に来るようになった。何でも、火曜日が休みらしい。カウンターの一番端の窓側に座って、ショートカクテルを二、三杯飲む。で、いつも窓の外に目をやって、プラットホームを眺めているんだ……。だからといって、別に男を待っている様子でもない。男と店に来たこともない。ただ、プラットホームをぼんやりと眺めていることが多いから、変わった子だなと思ったな」
 虎太郎は、思い返すように言った。
「電車を見るのが好きなのかなぁ、その子」
「さぁ、どうかな。乗降客で、気になるやつでもいるんじゃないか。ところで達也、彼女はできたのか?」
「いや、とくにないな……」
「その子、彼氏がいないようだったら、アタックしてみるか」
「冗談だろ。今は欲しいとも思わないし」
「そろそろ、彼女でも作れよ。俺のタイプじゃないけど、ちーちゃんによく似て、お前のタイプだと思うけどな……」
「千尋の話はやめろよ!」
 達也は瞬時にさえぎると、奥歯を噛み締め、虎太郎を睨みつけた。身震いするほど、興奮が湧いてくる。
 虎太郎は唇を半開きにさせたまま、目を見張って驚いたような表情を見せた。
「達也、思い出させて悪かった。謝るよ」
 達也は気まずくなって、虎太郎から視線をそらした。血がたぎるほど、一瞬にして激情がほとばしった自分自身に、達也は驚いてしまった。
「いや、……いい。怒鳴ったりしてごめん」
 黙っていると、暗い気分になった。窓ガラスを叩く雨音が気に掛かってくる。

 激しく降りつづく雨のしずくがガラス一面をおおい、忙しなく流れている。騒がしい雨の音に耳を傾けていると、千尋の理不尽な死に方に抗議しているように思えてしかたがなかった。
 それは二年前の夏、ヒグラシが鳴く季節の出来事だった。まばゆいほどの日射しが照り付ける、午後のひとときの記憶がよみがえってくる。

 生花店の向かい側のカフェで、千尋が戻ってくるのを待っていた達也の耳に、女の喚くような声が、断続的に聞こえた。窓際のテーブル席に座っていた達也は、窓ガラスの外に目を向けた。
 生花店の店先にいた数人の女が、険しい顔つきで、手ぶりを交えて話をしている様子が窺がえた。女たちのしぐさを見て、不思議に思った。
 そのうちの独りは、口もとに手を当て、涙ぐんでいるような表情を浮かべている。別の女は、携帯電話を耳に当て、何か、喚いているような口ぶりだった。
 胸騒ぎを起こした達也は、視線を移した。すると、路面に見覚えのあるワンピース姿の女が倒れているのが見えた。
 達也はぎくりとして、慌てて店を飛び出した。
 生花店で買い物を済ませた千尋は、店から出て通りを渡ろうとしたとき、シルバーメタリックのライトバンと接触して事故に遭った。千尋とライトバンが接触したところを、生花店の店員は一部始終を目撃していたようだ。そのことを、倒れている千尋のそばに近づこうとする達也に、店員は、興奮した口調で言い放った。
 夢と現実の境をさまよい始めたような、意識の感覚を味わった。ヒグラシの鳴き声が耳に響き、その鳴き声は、いつの間にか救急車のサイレン音に替わった。
 その後の記憶を思い出そうとしても、思い出せない。記憶をたどろうとすると、鋭い頭痛が襲ってくるのだ。
 千尋を失った日から、頭がぼんやりして動作が緩慢になった。不意に悲しい気分に襲われることがあると、自分自身を責めた。千尋を守ることができなかったことが悔しいと思い、その思いが募ってくると、感情をコントロールすることができなくなり、いきどおりが胸に迫った。
 その後、心療内科でうつ病と診断され、抗うつ剤と睡眠薬を服用するようになった。
 当時、中堅住宅メーカーの設計部門に六年在籍していた達也は、設計チーフを任されたばかりだった。一ヵ月ほど休職して通院していたが、精神が不安定なまま無理を押して職場に戻った。
 職場に復帰して一週間が過ぎたころ、勤務態度のことで上司といがみ合いになり、発作的に机に置いていた図面を床にたたきつけ、会社を飛び出してしまった。
 数日の間、悩んだ達也は、会社に退職願いを提出した。
 離職してから半年間ほど、自宅に引きこもる生活をしていたが、父親の口添えで、叔父が経営する小さな工務店に勤めることになった。
「仕事の話、うまくまとまればいいけどな」
 虎太郎に声を掛けられて、達也は壁に掛かった円形時計に目を向けた。時計の針は、七時四十分を指している。八時ごろに、仕事の相談にくる女が訪れるはずだ。
 外れていたドレスシャツの第一ボタンを留めた虎太郎は、身だしなみが気になるのか、化粧室に入って行った。

 八時過ぎに、店の扉が開いた。
 達也と話し込んでいた虎太郎は、視線を外した。カウンターの丸椅子に座っていた達也は、気配に気づいて振り向いた。
 木製扉のそばで若い女が佇み、花柄の傘を持っていた。コットンレースの白いブラウスにジーンズを穿(は)いている。眉毛が、やや濃くて、切れ長の目にショートボブの髪形が似合っていた。表情は凛(りん)と澄まし、達也に意思の強そうなまなざしを向けた。

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