見出し画像

正宗白鳥「微光」抜粋


「どうしたの姉さん」
 見張られてると感じ恐ろしくなつて家へ逃げ帰つたお国に、縁側で腹ばいになつて涼んでいる十五六の男が黒目がちの涼しい目を上げた。
「向かいの馬鹿がまた追いかけて来たの」
 お国は薄暗い玄関の方を見て言つた。
「勝ちやん、一寸出て見て頂戴」
「アゝ、彼奴ぶん殴つてやるといゝんだ」
 と勝太は拳に力を入れて跳び起きて、格子戸を開けて見回して、
「誰れもいやしないよ」
「そう、……本当に気味の悪い奴ね」

…お国、歳は25、6か。頼れる身寄りも無く、女郎や妾をして日々男に頼って暮らしている。親切な人の長屋の空き部屋に今はいさせて貰っている。彼女に言いよる男は多いが、誰も本心で無いと感じている。しかし彼女はそう云った男達に何気ない手紙を書いて、伺いを立てるしかない経済状況である。その家の小姓である勝太、15、6だが、彼は私の云うことなら何でも聞く。


 勝太はもの恥ずかしそうに、お国に命じられるままに教わつたばかりの歌を唄つた。
「ラブに貰うたハンカチフ、紅葉の模様とは気にかゝる、……トコトツトツト」
 唄つてからきまり悪そうに
「僕は駄目だ、僕のやうな唄ひ方ぢゃ三味線には合わんでせう」
「でも勝太の声はいゝ声だね、これから何か本式に稽古するといゝよ」
「ぢゃ、姉さんが教えて呉れるといゝな。さうしたら僕習うんだけど」
「お安い御用だ、何時でも教へてあげるよ」
「……旦那は怒らないかい」
 勝太は真面目に聞いた。
「怒るかも知れないね。でも、怒つてもいゝさ」
「旦那を怒らせたら、姉さん困るだらう、旦那のお陰でかうして生きていられるのだから。ご機嫌とつて気に入られる方がいゝよ」
「ご機嫌なんか私、取らないよ。もしも旦那に嫌われたら、勝ちやんどうかして呉れなくつて」
 と、目元にこびを含んだ。
「どうかしようつたつて、僕は駄目だなあ、お金なんか一銭も無いもの」
「ぢゃ、一緒に死んでお呉れよ」
「あゝ」
 と勝太は考えていたが
「僕、死んぢゃつてもいゝなあ」
 と、口に力を入れた。
「さう、一緒に死んで呉れて。私嬉しい」

 お国はさも悦しそうな顔をした。そしてその戯れの言葉を本当にしたい気になつた。こつちの死にたい時には何時でも死んでやらうと云う男のあるのが、何となく心を引立てた。そんな話をするだけでも心の慰めになつた。


「勝ちやんはどんな女が好き」
「私のやうなんぢゃ嫌?」
 などと云つては、勝太の恥かむのを見て悦しがつた。
 ある夜胸苦しくて、しきりに苦い唾を吐いていると、勝太はその背をさすつて介抱した。そしてお国がうつ伏せになつて何時しかウトウトしている間に、ソツと手を胸元に当てた。生まれて初めて柔らかい肌に触れた。
「胸を押へて頂戴、そこがつかえるやうだから」
 とお国は気づいて目を醒まして云うと、勝太は顔を背けて、指先に力を込めた。
「勝ちやんの手は大層震へるのね」
 お国は顔を上げて、冷やかすような目を向けた。

…良い話しは無く、お国はまた手紙を知人の男達に送りまくっていたが返事がこない。階下には天理教の先生が来て講釈を垂れていのが聞こえてくるのが鬱陶しい。お国は三味線を弾くから勝太に唄を唄わせて自堕落に暇を潰していた。

「勝ちやん、お酒を飲まうか、河内屋から二三号取つてきてお呉れよ」
 と、ばちを下に置いて云つた。
「誰れが飲むの、姉さんかい」
「あゝ、私、気がくさくさするから一人でお酒でも飲むんさ、いゝ子だから買つて来てお呉れよ。私に親切な人は世界に勝ちやん一人だから」
「本当に飲むの」
 と、勝太は怪しんで目を丸くしたが、それでも否みかねて、素直に言付け従つて出て行つた。

 階下の連中は何時の間にか帰つたらしく、声も音もしない。長屋から浪花節語りの単調な眠を促すやうな稽古声が、埃と湯煙の滲んだ生温い風に吹かれて来る。お国は顔を歪めてじれつたさうに頭を振動かした。そして三味線を手にして、幽かな爪弾きで思出し思出し品川で習ひかけた端唄を口の内で唄つた。手先は覚束なくて幾度か行詰つた。上目を使つて考へ考へ弾直し弾直ししたが、思う壺にはまらない。
「……月は野末に草の露、チチンチチリンツ」
 と、調子外れの不快な音が響いた。で、自分に愛想をつかして、三味線を後の方へ荒々しく押のけて、だるい身体を伸した。
「何が何として何とやらあ」
 と、長屋ではまだ飽きもせずに同じ事を煩く繰返している。その屋根に烏のような鳥の止まつているのが、すだれ越しに見える。何事が起こったのか子供達の鬨(とき)の声がして、路地の彼方へ急ぐ足音が騒々しく聞えた。
「姉さん、取つてきたよお酒を」
 と、勝太は瓶詰を前に突付けた。
「私、もう飲みたくなくなつた」
 と、お国は淡黄ろい酒の色を見詰めただけで、もうむかつきそうな気持ちになつた。
「勝ちやん、そこに座つといてよ。階下へ行つちや嫌」
 ろくに話しもしないで、二人は日暮頃までそこにゴロゴロしていた。

…正宗白鳥「微光」明治四十三年。お国の男達に頼るしかない身の上話が主題だが、話しの上では脇役でしかない小姓である勝太とのやりとりと、覚束ない手で奏でられる三味線の調子ばかりが、優しい静かな時間を紡いでいて、そこが私にはずっと印象に残っていて……。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

note.user.nickname || note.user.urlname

楽しい哀しいベタの小品集 代表作は「メリーバッドエンドアンドリドル」に集めてます

猫ちゃん好きなら「幸せと涙と」見てね
19

ベタ シャーデンフロイデ

私は熱帯魚ベタ、美しいヒレはご主人様のためだけにあるの。他の大きなヒレのある魚は許せない、ここは私だけのアクアリウム。代表作はマガジン「メリーバッドエンドアンドリドル」に。noteコレクションは「VeryBest」に。都内大手プロダクションで制作および管理などしています。

ベタのショート集

散文詩じゃ無いものを。ていうか散文詩が何なのか本当に分かっていません!内容は、エッセイ、自伝的なもの、創作的なもの、作曲した音楽の紹介その混合等様々ですが、特定な自白は控えさせて頂きます。

コメント2件

はじめてのコメントお許しください。なんか、お国の色気と気だるさを感じました。春琴抄のような味もあるのかな。楽しませていただいきました。ありがとうございました。
そうですね。その気だるさ…何か自分に感じるものがあるんです。白鳥は谷崎ほど脚色もなくて、日常の側面を優しく切り取っただけ、みたいな描写が好きです。まさに自然主義ですね…
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。