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べてるアーカイブ35th(5) 「『非』援助の援助」-精神障害者の支援をめぐって

2000年頃に向谷地生良さんが専門職向けに書いたもの。数回に分けて書かれていたものを今回ひとつにまとめた。写真はその頃の「元祖べてるの家」の様子。白いシャツを着ているのが早坂潔さん。
02年には医学書院から『べてるの家の「非」援助論』が出版された。

「社会復帰」を越えて

昨今、べてるの家のメンバーは忙しい。代表の早坂潔氏は、秋の掻き入れ時に仲間と共に全国各地を日高昆布の出張販売を兼ねた講演会に走り回っている。彼は中学3年の時「精神バラバラ状態」となり初めて精神科の門をくぐり、16回の入退院を繰り返してきた「病気のベテラン」である。今から1983年に、仲間と共に古い教会の建物(現在のべてるの家)に住み始め、そこで日高昆布の下請け事業をはじめたのが最初である。彼の人柄と「仕事が長続きしない」事に危機感を覚えた仲間達が次々に助っ人として集まるようになった。

1988年には、念願の下請け仕事からの脱却を図り本格的な日高昆布の産地直送を開始し、1993年には、ソーシャルクラブの代表を務めていた佐々木実氏を代表取締役として有限会社を設立し、福祉用具・介護用品の専門店「ぱぽ」を営み介護保険事業に乗り出す一方、病院で使う衛生材料、生活雑貨の納入、紙おむつの宅配、日赤病院の建物・公園等の敷地管理、給食の食器洗浄や配膳業務の請負等福祉用具や介護用品の事業に乗り出し現在は、事業への参加者は総勢100人(精神分裂病45人、アルコール依存症20人、知的障害16人、その他)にも及ぶ一大事業拠点となっている。

そのような過疎地でのべてるの家の活動を見学に、年間延べ1500人以上にも及ぶ人達が町にやってくるようになった。特段、立派な施設が整っているわけではない。訓練された専門スタッフが充実しているわけでもない。事業を担う100人余りの人達の中で、所謂専門職は、一人の看護婦と一人のソーシャルワーカーだけである。だが、昨今、様々なマスメディアで取り上げられるようになってきた背景には、決して「精神障害者の社会復帰」に対する評価や関心と違ったものがある。それは、企業活動、教育、街づくり等ジャンルを越えた様々な人達が「べてる」をキーワードに繋がりはじめ、各地でそれぞれユニークな地域づくりを始めていることと無縁ではない。「問題が山積して悩み多い地域にはいつでも『べてる』が出来ます。」というメッセージに触発されて、あらためて地域を見つめなおしながら、種々雑多な人達が垣根を越えて繋がり出している。そこに「心のバリアフリー」という現実を見るような気がする。

1978年にソーシャルワーカーとして精神科病棟に配属されて「精神障害者の社会復帰」を担う中で気付いた事は「精神障害者の社会復帰のテーマは、『精神障害者の社会復帰』ではない」ということだった。つまり精神分裂病という病気を抱えながら生きる事の大変さは、病気そのものの大変さ以上に「どのような地域で誰と生きているか」という事と密接に関係するという事を学んだからである。それは、ソーシャルワーカーとして仕事をしながら、街の教会の古い会堂(現在のべてるの家)を借りうけ赤十字病院を退院した当事者と1979年から足掛け3年間共に暮す中で得た結論でもある。そして、幻覚妄想状態となって様々なトラブルを地域で引き起こす当事者達と同じ屋根の下で暮しながら学んだもの、病気による固有の症状以上に「関係」を築けないという私自身の課題の大きさであった。しかも、それは精神障害を抱えながら地域で暮そうとする当事者や家族、そして、全ての人の課題としてこの「関係」の課題は横たわっていた。

人と人との「関係」によって人は育てられ、傷つきもする。精神障害を体験した人達は、様々な関係の危機を経験しているという事実に着目する中で、私自身も含めて職場や家庭の中で「関係に悩む」人達が多いことが判ってきた。しかも、浦河は過疎の町である。地域の抱える悩みは大きい。「関係に傷ついた経験は、関係の中でこそ癒される」という思いの中で、ソーシャルワーカーとして私は「地域の抱える苦労への参加」を当事者に呼びかけていた。地域の人達が、商店を営む人達が、昆布を取っている人達がどんなことに悩み、暮して居るかについて事有るごとに話をした。そして、脳性麻痺や難病等を抱える人達が日本の医療や福祉を改善するために、力を合わせて自らの経験を地域社会に向かって発言し、社会的な支持を受けているという話をした。「精神障害という病気を体験した事による生活の困難は、決して個人的な不運や不幸ではなく、今の地域社会が抱える多くの課題を誰よりも切実に味わっているという意味で、とても有用で大切な経験で、一人で抱え込んでいるのはもったいない」と話した。学生時代の4年間、北海道の先駆的な難病患者運動や脳性麻痺の人たちの活動を垣間見てきたものとして、至極当然のことであった。

「地域の抱える苦労への参加」は、「今、この地域のために自分が出来ること」を模索する動きとなってはじまった。「社会復帰のために」という建前より「金儲けしないか」という誘いのほうがダイレクトに当事者達の感性を刺激し「金儲けしたい」仲間達が少しづつ集まりはじめた。どこに行っても仕事が長続きしない早坂潔氏を先頭に日高昆布の袋詰の下請けの作業をこなしながら、「地域のためにできること」をいつも念頭に置き、べてるの家の歩みははじまったのである。

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