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べてるアーカイブ35th(1)「和解の時代」 〜べてるの家の歩み〜

90年代に向谷地生良さんがべてるの家の歩みについて札幌で教会関係者に向けて講演したときの記録です。

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北海道日高の浦河町にある浦河教会は、室蘭からえりもまで総延長200キロ以上に及ぶ地域の中で「共同牧会」という非常にユニークな教会同士の繋がりと支えあいの中で守られてきました。私が浦河に来た1978年当時は、過疎地にあって、経済的にも自立が困難で、選任の牧師も置くことが出来ない貧しい小さな群れでした。ですから、現在でも経済的には、都市部の教会から本当にたくさんの経済的な支えをいただき教会が維持されています。しかし、支えられることの多い浦河教会ですが、多くの祈りに支えられる中で、精神障害を体験した当事者としての早坂潔さんたちが育てられ、べてるの家の活動においても大切な役割を果たすようになっているということは、本当に不思議な計らいだと思います。

「共同牧会」とは、浦河のような田舎の教会と都市部の教会それぞれが身体の一部として、苫小牧地区にある教会がひとつの身体として一体であるということと、ひとつの身体が病めばひとつの体が共に痛みを共有し、支えあうあり方を指しています。そういう共同体の一部として、浦河教会は共同牧会の一翼を担ってきました。1956年に立てられた浦河教会は、私が来た1978年当時は無牧師の状態でした。牧師を抱えられないほど経済的に困窮していて、経済的基盤がとても弱い教会でした。浦河の町自体も、かつて2万2千人あった人口が、今は人口一万6千人の-実在人口一万2千人と言われている-過疎の町です。そういう中で、ひとつの教会を維持し、そこに集って宣教していくには様々な困難があった教会です。

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昔の浦河教会会堂で現在の元祖べてるの家の建物

私が初めて浦河教会の礼拝に顔を出したときには教会の役員は高校生がやっていました。そして、オルガンを弾く人もいなくて市販のカセットテープで賛美歌を聞き、テープに録音した牧師の説教をみんなで聴いて礼拝をしていました。そういった5、6人で礼拝を行っているときに私は足を運んでいったわけです。浦河教会は、過疎の町の中で、教会としても弱さをかかえながら、教会の火を消さないように細々と守っていた小さな群れでした。そして私は、1979年4月から無牧師の浦河教会に留守番を兼ねて住みこむようになりました。当時は、日曜日の礼拝も信徒が証をしていました。その交わりには「万人祭司」という教会の原点を見る思いがしました。翌年、日高の教会(元浦河、浦河、幌泉)に是非牧師をという声が上がりました。その結果、経済的にものすごい大きな重荷を負いながら一人の牧師が与えられたのでした。それが、宮島利光牧師でした。1980年8月のことです。

牧師の宮島一家が、教会に住むことによって、地域から「幽霊屋敷」と言われていた教会に灯りが燈るようになりました。すると、徐々に日赤病院のソーシャルワーカーとして私が係わり合いを持っていた精神科に通院している人達が自然と集うようになりました。私は、ソーシャルワーカーとして、1978年7月から、精神科を退院した精神分裂病等を体験した若者達と「どんぐりの会」と言う患者会をつくり、交流活動をはじめていました。

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青い屋根の元祖べてるの家と新しく建てられた現在の浦河教会

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1978年に回復者クラブ「どんぐりの会」が発足して、様々な交流が行われるように

一方、浦河の地域は、実にアルコール依存症の人達が多く、家庭訪問をすると、焼酎を飲んで喚いているお父さんの傍らにたくさんの子供達が共に暮らしていました。茶の間で父さんが酒を飲んで母さんと喧嘩をしていると、奥の部屋から子供達が嵐の過ぎ去るのを待つかのように、戸を空けながらちらちらとこちらを見ているのです。ソーシャルワーカーとして「いつでも、どこでも、いつまでも」というキャッチフレーズを掲げながら、私は、毎日毎日、SOSを発する家族の下に駆けつけるという毎日を過ごしていました。その子供達の殆どは、アイヌの子供達でした。そして、実はそのアイヌの人達に出会うと、そのお父さんの姉妹も妹さんも、また、妹さんのご主人もみんなアルコール依存症でした。そして、その親達の元でたくさんの子供達が暮らしていました。実はそのお父さん達も同じような境遇で育ち、そのおじいちゃん達も同じような境遇で育つという貧しさとアルコールによる家庭崩壊の悪循環の中で子供時代を過ごした人達の現実に圧倒されました。

様々なこころの傷や苦労を背負い、差別的な体験を背負いながら大人になりアルコールに溺れていく。その繰り返しを何十年も、何世代も繰り広げられきた人々の現実に出会う中で、私は巨大な壁に向き合っている絶望的な無力感に苛まれていきました。

そのような境遇に育つ子供達も、学力不振や、情緒の不安定に陥っていました。訪問を重ねるに連れて、たくさんの子供たちと知り合うようになり、子供達が休日や学校帰りに私の部屋に集まって勉強したり、遊びに来るようになりました。そこで、雨が降れば足が汚れる1万円で買ったポンコツ車を買い替え、発売されたばかりの9人乗りのボンゴ車を10年ローンで買い、毎週土曜日、その車で団地を回り子供達を乗せて川原に行ったり、遠足に行ったりなど、そんな活動を始めたのです。

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毎日のように、家庭訪問をしていた家の子供で広瀬君という子がいました。彼が小学校の3年生のときでした。「向谷地さん、日曜日は何してるの?」そう聞かれた私は「教会に行ってるんだよ」と答えました。「教会って何をするの?」「何人くらい来てるの?」と聞かれ「実は、あまり子供は来てないんだよ」答えると同情され「え、子供来てないの。かわいそうなとこだね。僕でも来れるの?そしたら、僕集めてきてあげるよ」というのです。すると、彼は近所の友達とか親戚とかみんなお父さんお母さんがアルコール依存症とかいろいろいろな苦労を抱えた子供達を集めてきました。それから、何ヶ月もしないうちに数十人の子供達が毎週教会に集うようになりました。それまでは、浦河の教会は「お化け屋敷」と言われるぐらい、寂しいところだったのですが、次第に人の行き交う賑やかな場所になっていきました。

ここで新しい事が起こってきました。「父さんが酒を飲んでる」「暴れてる」といって、子供達やそのお母さん達が避難してくるようになりました。宮島牧師が教会に泊めてくれて、私も駆けつけて「そうか、そんなことがあったんですか」といって話しをしていました。そしたら、まもなく酒を飲んだ父さんがタクシーに乗って追いかけてくるんです。「おっかーをだせ」と玄関をどんどんどんとたたいて、そのうち「おっかぁを出さないと警察呼ぶぞ」と言ったり、そんなことが頻繁に繰り広げられるようになりました。

私は現在べてるの家となっている旧会堂に住んでいました。その他にもなかなか住宅を借りる事が困難な精神科から退院した人たちが数名共同で住んでいました。私は、病院の職員であると同時に、病院から帰ったら自分の病院に通う人達と暮らすという生活をするようになっていたわけです。これは非常に不謹慎きわまる事で「公私混同」なんです。しかも、当時は精神科のお医者さんがすべてを決定してすべてを把握していなければ行けない神様のような存在でしたから、自分の知らないところでスタッフが患者さん達と交流し、しかも一緒に暮らしている。賛否両論がありました。

そこに斎藤さんという今は亡くなったがメンバーが当時一緒に住んでいました。その斎藤さんが非常にお酒が好きで、飲んで酔いが回ると、とたんに幻覚妄想状態のようになる人でした。斎藤さんは退院してきた1週間くらいは静かでした。その後、仕事から帰ると部屋の窓からロープがたれているのを見て「どうしたんだろう」と思いました。不吉な予感がして2階にあがっていくと、まるで別人になっていました。「斎藤さんこのロープは何ですか」と聞くと、きっとこちらを睨んで「脱出用のロープだ」「脱出。何が始まったんですか」「戦闘開始だ」実はその人は自衛隊あがりだったのです。年齢は35歳くらいだったと思います。それから、双眼鏡を出してきて港のほうを見つめて、何か特殊な言葉があって「ようそろー」なんかそんな言葉を海に向かって方向を指図したりしているんです。そして、部屋を見たら、立派な日の丸が掲げてあって、カセットから軍歌が流れてくるわけです。そしたら、ラジカセを左手に日の丸を右手に持って町の中を行進して歩くようになりました。

「俺は浦河教会の斎藤だ」そして、毎日その格好で銀行に一円づつ貯金するようになりました。なぜ、一円かは分かりません。「北方領土は日本の領土だ」という主義主張を掲げ、「北方領土は日本の領土なので、俺はそこに本籍を移す」といって、自分の秋田かどこかにあった本籍を移すべくす法務局と交渉してついに移すわけです。移せるんですね。そうしたら、どこから聞きつけたのか、新聞記者がかけつけて「北方領土に住所をうつしたという斎藤さんはいますか、是非、取材をさせてください」。私は「本当に良いですか。取材する勇気がありますか」って話したら、「帰ります」と言って帰っていきました。なので、新聞の記事にはなりませんでした。

それから、部屋の二階の窓から「攻撃開始。手榴弾」などと言って道路に向かってビール瓶を投げはじめました。教会の前の道路では瓶が割れて泡だらけ。そして、その前を車が通ります。大騒ぎになりました。そして、近所の人達集まってきて、パトカーが来ました。斎藤さんは町では「浦河教会の斎藤だ」と言って、あちこちで無線飲食をはじめるようになりました。病院に忍び込んで職員が着替えるロッカーから医師の白衣を盗み出して、その白衣を着ながら病院内をうろうろ歩き回る。そして、急患室を覗いたりして、看護婦さんたちが新しい先生だと思って頭を下げる。そして「急患室異常ありません」「そうか、今夜俺疲れてるから起こすなよ」なんて適当なことを言って、白衣のまま近所のスナックに行って酒を飲んでる。マスターが白衣を着てるから日赤のお医者さんだと思って「忙しいんでしょ?」「うん、これからオペがあるんだ」なんて言っていました。

ある日、2階にいると敵に攻められたときに逃げ場がないといって、窓にロープはぶら下げてあるけれどもそれも危険だということで、一階の私の部屋を今後の作戦基地に変更すると言い出しました。そして、私の部屋にビールを持ち込んで、教会で飼っているゴンと言う犬をボディガードとして私の部屋に連れ込んで、私の部屋の電話を使って「パレスチナゲリラのアラファト議長を出せ」とか「アメリカ大使館につなげ」とかやるわけです。すると、NTTの人が「お願いです、もうやめてください」と言ってきて、本当に浦河の町中が混乱しました。斎藤さんは、それでも夜を徹して電話をかけまくり私を寝かせない。「もういいから。敵に陥落されてもいいから、もう寝ます。休戦します」と寝ても、斎藤さんは「ここには爆弾が仕掛けられているんだぞ」と匍匐しながら僕のベットに擦り寄って耳元で目覚し時計をジリリンとならすわけです。「俺は昔レンジャーをやっていたんだ」と言って、突然羽交い締めされたりして、それで何とか一緒に病院に行ってもらったりもしました。

でも、その斎藤さんというひとりの人が、どんな人生を送ってきたのか、どんな苦労をしながら今にいたって、今こういった危機の中で生きているのか分かるにつれて、不思議ですが、憎さ以上に何かその姿を見ると微笑ましく感じるようになってきました。でも、私はその時思いました。私はワーカーと言う立場ですから、そういう家族を抱えて苦しんでいる家族に「こういう風に関わったらいいですよ」と、一応口ではアドバイスする立場にあるわけですが、いざ自分がその立場にあったら出来ないんですね。そういう目の前に起きている事に、距離感をもって冷静に受け止めて対処すると言う事が出来ないのです。それ以上に「もう嫌だ」という気持ちが募って、その「出来ない」という貴重な経験をさせていただきました。それからまもなくして、浦河に新しい波を起こしてくれたのが早坂潔さんでした。

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写真上段の真ん中が早坂潔さん

早坂潔さんと同じ屋根の下で暮らす中で、私は本当に鍛えられました。こういう人達に来てもらったら、誤解されて街の人たちから苦情が来て相手にされなくなってしまう。頻繁に立ったり座ったり、一人でぶつぶつ言いはじめたり、そんな人達がいたらという声が上がるようになりました。古くから教会に集う人達は「昔はこんな教会じゃなかった」というようになってきました。その時、「教会って本当になんだろう」と、問われる毎日が始まりました。本当に、いつも何もなくてそれぞれが健康的に守られていて、それなりに「おはよう」「こんにちは」「元気ですか」「はい元気です」そういう声が日常的に交わされている時には、私達は何か睦まじい関係で結ばれている気がする。ひとたびは早坂さんのような人達が、私達の中に投げこまれたとき、教会に集っていた人達はお互いの考えの違いや物事の見方の違いでぶつかりあうようになりました。

早坂さんは、どういうわけかどんどんご飯を食べなくなる。そして、だんだん痩せて来て、何かに脅えるようになる。そして、声をかけるとテーブルをひっくり返したり、突然壁に突進したりしてぶつかってみたりガラスを割ってみたりということが始まりました。もちろん本人も辛かったと思いますが、私達もどう対応したらよいか本当に思考錯誤でした。その都度病院につれていって、彼は保護室に入りました。そして薬を飲んでだんだん安静になり、元気なり退院する。でもまた、時間がたつと同じような事が繰り広げられていく。

そんな、どこに仕事に行っても同じような発作を起こして生活困難になる彼に、宮島先生の奥さんは一つの提案をしました。彼と一緒に下請けの仕事をしてみたい。手作業の仕事をしてみたい。そんな事を言い出しました。浦河は過疎の町でしたから、なかなか商売に恵まれない、これと言って仕事を探しても仕事のない町ですから、私達は共働学舎を見学したりして、自分達で何かできることがないか尋ねて歩いてみましたが、とりあえず浦河のどこの家庭でもやっている昆布の仕事をやってみようとはじめました。

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共働学舎(新得町)をみんなで見学に行ったとき

ところが早坂さんは3分と持たないんですね。今もどこに言ったか行方不明ですが(笑)、どうしても納期のためには宮島先生の奥さんが後始末をする事になる。じゃあ、早坂さんが3分しか持たないんだったら、誰かその3分を補う仲間を探そう。そして、一人の仲間が与えられました。でも、やっぱり仕事をこなすのは難しく、そしたら、その彼の不足を補う仲間を探そう。そうして、一人が二人になり、二人が三人になり、下請けの仕事がどんどん広がっていきました。

仲間を得ながら早坂さんは相変わらず発作を起こしていました。どう彼と付き合って良いのか、なぜ発作を起こすのか、なぜ暴れるのか、本当に思考錯誤しました。うちの長男の宣明が彼の頭をピコッと鳴るハンマーでたまたま叩いたら、彼が「うっ」とうなって、元気になったものですから、「あっこれは効くんじゃないか」とべてるの茶の間にそのアンパンマンのピコピコハンマーに「川村Dr推薦 早坂潔発作防止装置」と書いてかけておきました。早坂さんがいつも調子悪そうになると「ハンマー、ハンマー」といって彼の頭をピコッと叩くと彼は「うわっ」といって「あー効いた、効いた」といって、そんなものに頼ったりしていました。

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昆布作業をはじめた頃の早坂潔さん

ある日、突然彼がテーブルをひっくり返して「マジンガ-Z!」といって立ち上がってパフォーマンスをはじめたので、早坂さんに「よし、いくぞ」といって我が家に連れていって、息子に「マジンガ-Zつれてきたぞ」というと、「えっ!マジンガ-Z!?」と喜んでおもちゃの剣を持ってくるんですね。そしたら早坂さんもマジンガーZをやるわけです。そして、えいやーえいやーと戦うわけです。そうやってやけくそやってました。

そんな事を繰り返しながら、「なぜなんだろう、どうしてなんだろう」といつも思考錯誤していました。ある時、彼が寝返りできずにいたら血行障害で腕が二倍くらいにはれ上がって「フォルクマン症候群」という、俗に「ハネムーン症候群」といいますが、右手が麻痺をしてしまってまったく使えなくなる。そこまで彼は行くんですね。しかも、そういうときは煙草も吸わせてはいけないんですが、煙草の火が指を通りすぎて火傷をしても彼はそのまま離さずに握っているのです。そんななかで、私達も本当に疲れ果てていたときに「潔ドン、歌うか」。まさか、歌えるなんて思ってもいません。「歌うか」。そしたら、煙草の火で火傷しても気がつかないくらいの混迷状態の彼が、突然賛美歌を歌い出しました。「いつくしみ深い~ 友なるイェスは~」。私はびっくりしました。本当に閉ざされた中で、もがこうと思ってももがけないなかで、彼は賛美歌だけ歌えた。「あー、彼も苦しんでいるんだな」「彼自身がもがいているんだな」と思えました。

それから少しずつ、彼が自分の思いを外に出すという事がもしかしたら大切なのかもしれないと思うようになりました。今までは彼は「分裂病だ」とか、いろんな病気を言われていました。実は、彼の両親はいつも喧嘩が絶えなくて、父さんは酒を飲んでは暴れ、子供の前で母さんを殴ったりして、その母さんもまたアルコール依存症でした。そんな両親は兄弟を分けて離婚してしまった。そして、一緒に暮らしはじめた母さんもまもなく癌で亡くなりました。学校では、他の子供達と離されて特殊学級に入れられてしまった。それがものすごい劣等感になって「ちきしょう、負けてたまるか、バカにされてたまりか」という、そういう闘争心で自分を支えて生きてきて、自分の寂しかった気持ちをずっと押し殺して生きてきた人なんだとわかってきた。その自分の抱えた思いが表に出ないときに、彼は発作を起こしていたということが、だんだんとわかってくる。それが、彼自身が我が事としてわかってくるまで15年かかりました。それまでに彼は16回の入退院を繰り返しました。

アルコールの子供達、その親たち、斎藤さんのような人達、そして早坂さん達が教会に来たとき、普段私達が「隣人」といっていた、「祈っている」といっていた、「隣人を愛する」といっていたことの内実を私達は問われました。本当に「信じる」ということは、決して信じやすい形で、信じるに値する形で私達のところには絶対来ないというのが私の学んだ事です。「信じる」とか、「愛する」とかは、もっとも愛しにくい形で、もっとも信じにくい形でしか私達のところには来ない。もっとも愛しにくい、もっとも信じにくい形でもたらされた事のなかで、私達は「にもかかわらず」その中でそれを信じぬく。それを愛しぬくと言う事が私達のなかで問われているわけです。私達は、どちらかというと、愛しやすい事を愛したり、信じやすいことを知らず知らずのうちに信じたり、それが愛する事、信じる事だと思ってしまいます。しかし、私達が学ばされた事は決してそうではなかった。決して愛せない形でしか私達のところには愛は来ないんだ。決してこの人は信じられない。そういう中で信じる事を私達は試されるんだ、そう考えるようになりました。それは決して私達が立派だからというのではなく、むしろ早坂さんとか斎藤さん達が「それは、そういうもんなんだよ」と教えてくれたように思います。

私は病院で医療相談をしているものですから、町の中のいろいろな困った人の苦労が押し寄せてくる場所で仕事をしているわけです。単純に現在、年間相談件数9千件を二人のワーカーこなしています。浦河に来て様々な現実に出会っているうちに、私は浦河に来て3~4年で胃潰瘍になったんですが、それと同時に、ものすごい無力感を味わった。絶望感に近い、無力感と、力の抜ける時期がありました。この北海道で100年以上に渡って繰り広げられてきたアイヌの人達の苦労の現実。そういう人たちがたくさん地域にいて、この巨大な苦労の壁を前にして、ちっぽけな自分がその中でへたり込んでいるような感じがしました。

病院では私は当時の精神科の先生にとっても嫌われていました。地域の相談会がいろいろあって、その先生と一生懸命行って、いろいろな相談にのる。なかなか話がうまく進まない。「向谷地君、何かないかい」と先生がいう。私は自分なりに「◯◯というのはどうでしょうか」という。そしたら、その場が「それはいいことですね」とがらんと変わったら、その後が大変でした。後からその先生に呼ばれて「俺の顔に泥を塗った」と叱責されたりして大変でした。4年目には先生に「やめてほしい」といわれ、私は精神科に出入り禁止になるんですね。その先生は私を辞めさせようと院長に掛け合ったりしていろいろ努力していました。そんな様々なことがあったときに、私は絶望感みたいなものが自分の中に実感していくのが分かったんです。その後の自分は、これは私の偉いところでしてね、「もしかしたら、これが本物の絶望感かもしれない」、『絶望感』と言う深い鉱脈を掘り当てたかのような感慨と言いますか、感動が自分を襲うようになりました。「あ、これが本当の行き詰まりなのかな」、「自分は良い経験をしているな」と思えたんですね。私の前に、自殺未遂を図ったり、様々な生き辛さを抱えている人達がいるわけですが、「こういう気持ちになるのか。そうか。そうか。こうやって、人は心が蝕まれたりして、病気になっていくんだ」という風に思えたし、思うようにしたんですね。

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昔の浦河赤十字病院の精神科病棟

そして、その先生とうまく行かない。これも深い人間関係の課題です。私は、早坂さんや佐々木さん達のような病気を経験した人たちと出会って、この人達は、人間関係という関係に傷ついて、関係の中で自分を見失って、関係を閉ざしてきた人達だ。それを回復する豊かな関係が必要なんだ。自分は人間関係に苦労している、じゃあこの苦労をどうやったら豊かな関係に変えていけるか、これは大事な宿題をもらったと思ったんです。特に、その精神科の先生に嫌われれば嫌われるほど、その先生を嫌わないで、憎まないで、その先生と何か和解する方法を探す事が、関係作りのお手伝いをする私の仕事のもうひとつのテーマではないかと思ったんです。その先生とは5年目にやっと和解できました。「君には負けたよ」っていわれて、握手しました。

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浦河赤十字病院に就職した頃の向谷地さん

潔さんとか、いろいろな人達が地域の中で一見トラブルを起こしてきました。しかし、潔さん達がだんだん言葉を取り戻してきて、「さみしかったんだよ」「こんな苦労をしたんだよ」って、その苦労を語れば語るほど、だんだん周りとの関係が回復してきたんですね。

私は、本当に自分がこの非常に大変な時期に、ふつふつと湧き上がってきたイメージがあります。それは、イエスが弟子達と旅をしていた風景です。沢山の優秀な人達がイエスの弟子になりたいと押し寄せてきたなかで、選ばれたのは優秀さとはまったく正反対の人達でした。「何で彼奴らなんだ」「なんで俺が選ばれないであの人が選ばれるのか」「そんなことありえない」そんな声が上がったと思います。ところが、イエスはその弟子達と旅をしました。そして、「順調に」いろいろなトラブルが起きました。イエスが一番支えてほしいときに弟子たちは眠りこけり、この中で誰が一番偉いかなどと争ったり、名誉や権力に執着したり、イエスを欺いたり、逃げ出したり、最後にはイエスは一人孤独のうちに人々から唾を吐きかけられ、罵声を浴びて十字架へと向かって行くわけです。

ところが、ここに自分は唾を吐きかけられて殺されるんだよ、みんなから本当に汚い言葉を浴びせられて、辱められて自分は死ぬ、「それで順調なんだよ」と言っているように思います。そして、その弟子達がその後の教会の土台となって、本当にイエスの言葉を伝えるものとして用いられていくわけです。これもすごいですよね。教会の土台とは、まさにその混乱や疑念にかられた人達によって作られてきたんだな。そういう意味で、教会が混乱したとき、弱りそうになったとき「教会とはそういう事の中で育てられてきたんだ」と思うわけです。

べてるはいつもいつも問題だらけです。アルコール依存症だったり、分裂病だったり、過食拒食だったり、薬物だったり、いろんな苦労を抱えた人達によってなりたっています。

今日も問題だらけ。明日も問題だらけ。もしかしたら、ずっと問題だらけかもしれない。でも「順調だよね」と僕たちはいいあっています。


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向谷地生良さん(2017年 フィンランドで撮影)


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近年のべてるの家のメンバーたち

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