リラックス。
緊張をとくこと。くつろぐこと。

リラックスしようと思うとリラックス出来ない。

あのもどかしさは なんでしょう?

 
寝ようと思っていざ布団に入ると眠れない。

旅行の計画を練ってる時が一番楽しい。

結婚したのは全然タイプではない人。

 
落ち着くという状態は意識してしまった瞬間終わりなのです。

 
期末テスト前日で勉強しないといけないのになぜか部屋の片付けを始めてしまい気付いたら懐かしい漫画を読んでいる。

リラックスはある種、追い詰められた精神状態への現実逃避なのかもしれません。

むしろ危機的状況の方がリラックスしてたりする。

 
そうなると

死は

究極のリラックスなのかもしれません。

 
生きる事もまたある種の緊張状態でありますから その解き放ちは死によってもたらされます。

もちろん死ぬ事を勧めているわけではありませんが、遅かれ早かれ生き物はいつか死ぬ。のであればいかにその淵に間接的に近づくかが快適なリラックス状態への糸口になっている気もします。
 
 
生殖行為のあとの急速な眠気
いわゆる賢者タイムですが
遺伝子を後世に残すことはある意味 自死の瞬間。
だからリラックスして眠くなるんじゃないでしょうか。

食事をした後のゆったりとした眠気
消化活動に余念のない我らの身体の賜物ですが
古い細胞から新しい細胞への循環作業という観点では小さな死であるし他種の生命活動の略奪は巡り巡って自類の絶滅活動になりたりうると頭のどこかでわかっている。
だからリラックスして眠くなるんじゃないでしょうか。

起きた瞬間のまだ目が覚めていないぼんやりとした眠気
しかも時計がもう間に合わない時刻を指している場合
諦めと同時に「じゃぁ、せっかくだから2度寝しちゃおう…」となぜか社会的自殺行為を遂行。
だからリラックスして眠くなるんじゃないでしょうか。

 
そのほかも
煙草やサウナ、お酒やギャンブル、テレビゲーム、カラオケ、芸術、スポーツ、他者とのコミュニケーション、悟りを開くための苦行

これらはやんわりとそして間接的ではありますが
死の淵に近づく事でもたらされるリラックス状態

 
となると 死とはなにか?
 
 
以前私は
全ての感情は恥の上に成り立ち
恥は裸、すなわち無意識、無我の上に乗ってる
と定義付けしました。
 
死自体は無に帰る現象なので
無意識、無我の界隈に生息してると思われますが
極限状態からの現実逃避がリラックスであるならば
どうも恥の上に死的な「無になろうとする」運動は乗ってる気がします。

なんでしょうか
私はさっきから
新しい宗教でも作ろうとてるのでしょうか?

 
と、言うような 今みたいな
自分自身へのツッコミ視点
みたいなものが「無になろうとする」運動です。

これは突き詰めた感情や
生まれてから生きていていつのまにか表れた自意識や自我がふと剥がれ一瞬無くなる瞬間。
 
この死 的な感覚が
「無になろうとする」運動、すなわち

リラックス状態 なんじゃないかな。

 
 
 
なんか考えるの飽きた

おわり