今日は 祭 をテーマに何か書いてみようと思いまして

私が祭で思い出すのは4~5歳くらいの頃
近所の商店街で催されてるお祭りに家族で行きました。
ガヤガヤとした人混み特有の雑音とスピーカーから聞こえてくるうっすらとした祭囃子

そしてパッと思い巡る映像は
横並びのチョコバナナの絵面です。

 
それはたしか生まれて初めて見たチョコバナナでした。
とにかくビジュアルにやられまして、フォルムとカラーコーディネイトと剥き出しで陳列されているパーティー感とが私の子供心のやらかいばしょを鷲掴みにしたのでした。

私は両親に「あれ食べたい」と指を指して言いました。
そのあとの記憶はぼんやりしてるのですが私の言葉に対して確か母親が

「いや、あれ美味しくないんだよ」

と返したのだけはけっこうちゃんと覚えています。 

 
そのニュアンスというかトーンというか、
なんか

「雰囲気に流されて美味しそうに見えるだけで実際はそうでもない。私も昔そうやって騙された経験がある。」

という感じが当時言語化出来なかったけどすごく伝わってきたのです。

 
その後は実際買ってもらって食べたのかさだかではないのですが「たしかに美味しくないな」という何となくの実感だけ私の中に残っているので、おそらく体感としてもチョコバナナショックはどこかで受けたのだと思います。(いわゆる屋台のチョコバナナが美味しくないなあるあるですので人によるし美味しい調理の仕方もあると思うのですがあしからず)
 
 
それで、私が言いたいのはここから
その「いや、あれ美味しくないんだよ」と言われた後の記憶がぼんやりとしててなんか思い出せないというのがポイントで
 
子供心に「冷めて」しまったのだと思います。
 
「雰囲気によって美味しく見えるだけで実際はそうでもないチョコバナナ」を起点に
「この人混みのガヤガヤも楽しげな祭囃子もその催しに足を運んでいる自分達を含めた他全員もこのチョコバナナと同じような祭という共同幻想の自己演出による雰囲気である」と漠然と感じてしまったのだと思います。
 
 
どんな子供だ。 と思いますが我ながら…ただ私は昔からよくこれがある。この感じが。

 
それは別に斜に構えたい気持ちや強い警戒心なのではなく、なんかスコンと音を立てて抜けちゃう亜脱臼みたいな現象なんです。 
上手く自我形成や関係構築や社会参加や出来ていない。
たまになかっただろうか小学生くらいの頃、休み時間に教室で友達何人かと楽しく喋って遊んでて盛り上がってたのに急にスコンと抜けて「おれは誰だ?…コイツら誰だ?…ここはどこだ?…何してるんだろう?…」ってなる瞬間。記憶喪失とかではなく。さっきまでの現実感が急にほどけて丸裸にされる感じ。飽きる という感覚が一番近いかも。
 
 
まぁちょっと長めのエピソードじみたものになっちゃいましたが
私は 祭 聞くとこれが出てきてしまうのです。
ただ大人になってから少し思うのはその私が味わった感覚は祭というものに対してあながち間違ってない距離感な気がするのです。

祭 はそもそも慰霊や神仏や祖先をまつる行為。
古くは豊穣への感謝や祈りであり、おそらく狩猟や農耕は天候や季節に左右されやすく精神的な拠り所として生まれていった思考や行為なのだと思います。言ってしまえばはなから実態は無い。つまり雰囲気です。

それが儀式となり慣習となり行事となり本来の意味が外れ形式のみ残る。
大相撲とかはもともとは神道として奉納の祭、神事であるらしいですが宗教的な関心の薄れなどからもうそれらを忘れて純粋に相撲としてだけ見てる人が多かったりします。

なんだかよくわからんけど皆やってるし前からずっとやってるからやってる。的なものです。
雰囲気の総体。雰囲気の大きな塊。雰囲気の核心部分の雰囲気。と言ったところでしょうか。
なのでそこに参加しようが参加しまいが雰囲気に流されようが流されまいが途中まで楽しんで急に冷めてしまおうがその逆もまたしかり ってなろうがそれ自体がそういうもんなのだからどうでもいいんです。

チョコバナナ美味かろうが不味からろうが食べようが食べまいがどっちでもいいんです。
それがそこにあるだけ。もしくはないのかもしれません。スコン