歳をとればとるほど時間経過が早く感じる。

心理学的な説明によるとこれにはジャネーの法則という名前がある。

50歳の人にとっては1年の長さは人生の中で50分の1
5歳の人にとっては1年の長さは人生の中で5分の1になる。
50歳の人にとっての10年間は5歳の人にとっての1年間に当たり
5歳の人にとっての1日は50歳の人にとっての10日に当たる事になる。
 
 
あくまで心理学的なアプローチだと思うが「なるほどなぁ」と「んなバカな」という気持ちを同時に感じてしまう。
 
 
たしかに子供の頃の方が1日や1年が長く感じた。
夏休みが途方もなく幼稚園に通う前の日常は永遠に続くもののようだった。
 
今は大人になってしまっているので午前中ですら早く感じる。
気付けば「あ、もう五時に夢中の時間か」
気付けば「あ、岩井志麻子が出てるってことはもう木曜か」
気付けば「あ、志麻子がヒョウの格好してる!前してたのいつだったっけ?」
と光陰矢のごとしもしくは志麻子ホリプロ所属なんか意外し だ。

 
今言ったようにある種の習慣化された生活様式によって経験知が体感時間を加速させる。
日本は諸外国に比べ折々の四季を感じる濃度が高いため勤勉な性格による精神疲弊が多いのでは?
無知の極みのような仮説ではあるがその憶測は私個人の季節への肌感覚がものを言ってくる。

そしてそれにつけて
昔より四季の境目が曖昧になってきてる気がする。
温暖化の影響なのかなんなのか数字の上での月日は進んでいくのに気温や気候が春のそれや秋のあいつではない。
ちょっと見ない間に雰囲気変わっちゃってる。一瞬気付かない。
そこら辺の四季のズレも体感時間を加速させる要因なのでは 。

あとおそらく医学の目覚ましい進歩によって
我々の寿命も確実の伸びているのでしょう。
それがなんだか終わりなき日常と今この瞬間との混濁をよりかき乱す。
いつ終わるかわからない飲み会は「長ぇな早く帰りたい」と「うわもうこんな時間じゃん」という遅さと早さを同時に感じる事の出来る すっごい陳腐な浦島現象。

 
時間経過と繰り返すルーティーンは実は別のもので
私という個体個人個我は今ここに存在しているという認識と
全体という総体総人総我が今ここに存在している意識が時間経過の中で同一線上には居ない。
1秒1秒通り過ぎてゆく時間の中にいる私とそれを1秒1秒通り過ぎてるなと意識している私は別の時空地点なのだ。
私は四季の中にいるが四季にとっては私はその四季の一部に過ぎない。

 
ちょっとスピってみて
広い宇宙から見ればとか言ってみれば
この四季を含めて時間経過が早く感じてきている私が存在している地球がある銀河系は
宇宙にとって春夏秋冬のどの段階なのであろうか?