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「あの頃はよかった」と、誰かと懐かしむ時がわたしにも来るのだろうか

スナックでバイトを始めて3ヶ月弱が経ちました。ありがたいことに、お客さんも何人かついていただいて、わたしが出勤している時でないとお店には来なかったりする。

55〜70歳くらいのお客さんが多いのだけれど、68歳のママと一緒に「あの頃はよかった」と話しているのを隣でよく聞いている。「あの頃の歌はいいのが多い」「あの頃の俳優が本物だ」「あの頃の本は面白い」「あの頃の映画は見応えがあった」…。最初は、ご年配特有の、現代にはついていけないからあの頃を懐かしんで美化しているのだと、右から左に流していたのだけれど、よく考えると、果てしてわたしにもそういう時代がやってくるのかなと疑問に思えてきたのだ。

まだ若いからそんなことを言っているのだ、と思うかもしれない。では、彼らの言っている「あの頃」とは一体いつのことなのだろうか。わたしが話を聞いて推測するに、おそらく彼らが20代後半からせいぜい40代前半あたりだと思う。遊び盛り、働き盛りの若者の時代だろう。つまり、27歳のわたしは十分に今の時代を40年後に "あの頃" として懐かしんでいてもおかしくないはずなのだ。真っ只中にいるから、まだよく分からないのかもしれない。いつだって、手に入らないものしか魅力は感じられない。

しかしだ。わたしは2つの観点から「あの頃はよかった」と、誰かと懐かしむ時がわたしにも来るのか疑問に思っている。

一つ目は、このご時世において新しいものに順応する能力がいつ衰えるのか分からないということだ。どういうことかと言うと、過去を懐かしんでいるママやスナックにいるお客さんは、簡単に言うと「変化についていけなくなった」結果であると思っている。変わりゆくものを良いものだと思う努力ができなくなった、変わった姿を受け入れられなくなったのだ。それも無理はない。インターネットが生まれて、技術は一気に進歩し、色々な価値観が浮き彫りになった今、ついていくのは心がしんどいだろう。

でも、わたしたちはどうだろうか。どんどん出てくる新しいものを「良い」と理解し受け入れる癖がついているように思うし、それは単に若いからという理由だけではない気がするのだ。そんな気がすること自体が若いからであり、結局若いからだと言われたらわたしには反論する余地はないが。

二つ目は、40年後に共通言語をもって懐かしみ合える相手がどれほどいるのだろうかという点にある。昔のように、みんなが同じテレビを見ていないし、みんなが誰かに熱狂しない。「聖子派か明菜派か」なんてものはなく、アイドルが嫌いだって構わないし、初音ミクこそが至高の音楽だと思っても構わないし、無音を愛したって構わないし、咀嚼音をずっと聞いてたって良い。インターネットがあれば、世界中の誰かと自分の趣味を共有できて孤独も感じないから、無理に大多数の輪の中に溶け込む努力も必要ない。

そうなると、例えば「宇宙に気軽に行けなかったあの頃は夢があって良かった」とか「クローン人間のいないあの頃は不出来な人もいてそれも愛らしかった」とか「人は病気になったり死んだりするからこそあの頃は人生を楽しもうとしていたから良かった」というような、テレビなどの共通のコンテンツのことではなくて、今を生きる我々ならば、もう少し外枠にある普遍的な事実しか語り合うことができないだろうか。


「あの頃はよかった」という言葉に何も感じていなかったし、むしろ年寄り臭いなあなんて思っていたけれど、いまは、そう語り合える誰かがいるのも良いことだなと思う。共通言語をもって、同じ時代を生きた証をお互いの心に刻んでいるようで、しっかり人生の最後に向けて歩んでいる感じがするのだ。

これからわたしは、誰を愛し、何を語り、死んでいくんだろうなあ。


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