ナニモノなのか

これはわたしのブログだ。いま、結論が見えないまま書き始めていることをどうかお許しください。


わたしには、昔から羨ましくて仕方がない類の人がいる。

それは、「なにかとても苦手なことがある」人、もしくは「なにかとてもやりたくないことがある」人だ。

というのも、こういう人たちは大抵、「なにかとても好きでやりたことがある」からである。


わたしは小学生の頃から成績は5段階表評価とすると、すべて4か5。高校の時、文系か理系かどちらにするか本当に悩んだくらいである。それくらい、「いやなこと」「苦手なこと」が特になかった。裏を返すと、好きなこともやりたいこともなかったということである。

テストがある、なら勉強しよう。受験がある、なら勉強しよう。試合がある、なら練習しよう。それくらいなテンションでソツなくこなしてきたわけである。そこになにの感情も特にない。「目的があるならそれが達成されるような行動をとろう」以上である。

その目的を達成するために、「楽しい」と思う必要がありそうであれば、楽しくなるような行動をするし、ちょっと苦手なものはその分だけ多く行動する、ほんとにただそれだけである。


だから、「やりたいこと」「好きなこと」に対する憧れが人一倍強いのかもしれない。そのような感情を時に強く抱くと、捕まえずにはいられない。そこに対する行動に、サンクコストの計算は驚くほどに、ない。



日本人は幼い頃から必ず所属があり、それは肩書きとほぼニアリーイコールだ。高校名は偏差値を表す自分の肩書きであり、大学名も然りだ。ただ、学校による肩書きは自分の意思で変更するのはけっこう労力がかかる。それに肩書きは、変更不可能、すでに決められているものである。

「上智大学文学部英文学科」という偏差値高めで動かぬわたしの昔の肩書き。根っから英文学が好きな人でも、わたしのようにとりあえず英語に触れていたいレヴェルの人でも、一字一句同じ肩書きが与えられる。

これは、ある種の社会主義的感覚をわたしに覚えさせるといったら大げさかもしれないが、がんばってもがんばらなくても同じ肩書きを世の中に提示できる凄みである。


わたしはドエムだ。このがんばってもがんばらなくても与えられるキラキラした肩書きをいち早く剥ぎ取り、自らの手で何者かになりたいと思った。所属や肩書きに頼らない、そんな自分に。


だけど、すごく窮屈だ。肩書きがないのは、自分の名前がないくらい、窮屈だ。お前は、誰なんだ。





肩書きを名乗るのは、きっと簡単だ。自称で構わないんだから。


だからきっと、みんなナニモノでもないのかもしれない。




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