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「解釈違い」の解釈違い。

「解釈違い」という言葉がある。
文字通り解釈が違うことを指すのだが、インターネットやSNS上で使われ続けていく内に、昨今どうやらその性質が変化してきたように感じる。

ここにひとつのコンテンツがあったとする。
そこにとある人気キャラがいて、そのキャラの言動が物議を醸し出すことになる。
ある人は「意外だったけどそう来たか。新たな魅力としてアリ」と肯定する。
またある人は「ダメだ受け入れられない。このキャラはそんなことをするキャラではない。完全に『解釈違い』」と否定する。
出ました「解釈違い」。
否定派のその人にとっては解釈が違ったということなのだろう。

実は私にも経験がある。
私は『アイドルマスターシンデレラガールズ』というコンテンツに傾倒しているのだが、その中のアイドルであるアナスタシアのソロ2曲目の『たくさん!』乙倉悠貴の同じくソロ2曲目の『ずるじゃん』が、かなりの長い間受け入れ難かったのだ。
『たくさん!』の方はアナスタシアが「やっぱ」と言うことに違和感があり過ぎ、『ずるじゃん』の方は乙倉ちゃんが「ずるじゃん」と発言することに同じく激しい違和感を覚えた。
要するに、「この2人はそんなことを言うキャラじゃない」なんてお気持ちが私の中で支配的だったわけだ。
今思えば愛が重いゆえの厄介ファンでしかなかったのがお恥ずかしい。

で、ご多分に漏れず私もその頃は「あの2曲に関しては解釈違い」などと発言していた記憶があるが、そこからどうやって正気を取り戻したのかと言うと、「解釈違い」という言葉の意味について考え直したのだ。
ファン同士の意見が食い違って、「あいつと自分は解釈違いだ」とするのはいいだろう。何も間違ってはいない。
だが公式が提示したものに対して一介のファンが「それは解釈違いだ!」などと不平不満を垂れるのはどうなのだろう、と。
一介のファンが何をどう言おうが、公式側に余程の落ち度でもない限りそれが覆ることなどありえないのに。
それは「解釈違い」でもなんでもなく、結局のところ「自分の好みには合わなかった」というだけのことだ。
いかにも「こちら側にも正義はある」風に言うな、ってな話である。

悲しいことに、でもなんでもなく、公式こそが絶対正義なのだ。
我々ユーザーは、公式が供給してくれるものを基本受け入れるしかない。
もちろん熱心なファンの声が公式に届くことだってある。
その前例だって枚挙に暇がない。
だがもちろん、その意見に筋が通っていることが大前提である。
「俺の〇〇ちゃんはそんなこと言わねえ!だから修正しろ!」などといくら声高に叫び続けたところで、それはもはやただのモンスタークレーマーである。

望まざる公式からの供給があった場合、ユーザーが取れる選択肢は3つある。
1つ目は何らかの折り合いを付けてそれを受け入れること。
2つ目は見なかったこと、見ないようにしてそこ以外を楽しむようにすること。
そして3つ目はそのコンテンツから身を引くこと
このどれかを選ぶことになる。
前述の私の場合はこれの1つ目を選んだわけだが、2つ目はなかなかに高等テクニックであり、かなりハートが強くないとそのスタンスを貫き通すことは難しいに違いない。
3つ目はいわゆる「嫌なら見るな」的な暴論に聞こえるだろうが、実はあながち間違っているとも言えない。
なぜなら、コンテンツは娯楽であるべきだからだ。

娯楽でストレスを溜めるなんてあまりにも馬鹿馬鹿しい。

そんなことになるぐらいなら他の楽しいことに注力した方がはるかに建設的というものだ。

改めてここに定義しよう。
「解釈違い」は、ファン同士の意見が食い違った場合のみに適応される。
公式からの供給が気に入らなかった場合、それは個人の好みでしかない。
なので、自己評価の高い人ほど「なんてことをしてくれたんだ!」と勘違いした義憤にかられることになる。
今一度冷静になり、自分の今の感情は筋が通っているものかを確認することが必要だ。
あまりに厄介ヲタクで溢れ返ると、運営もやる気を失おうというもの。
それで当たり障りないものばかりになってしまうと、なんとも面白みのないコンテンツに成り下がることだろう。

あなたのその解釈、独り善がりになってませんか?


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