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仏教僧の四種~菩薩僧・声聞僧・凡夫僧・福田僧~

末世の供養僧宝

大乗本生心地観経に云く、

 善男子よ、世・出世間に三種の僧あり一には、菩薩僧、二には声聞僧、三には凡夫僧なり。文殊師利及び弥勒等は是菩薩僧なり。舎利弗・目連等の如きは是声聞僧なり。もし、別解脱戒を成就する有る真善凡夫、乃至、一切の正見を具足し、能く広く他の為に衆の聖道の法を演説し開示し、衆生を利楽するものを、凡夫僧と名づく。未だ無漏の戒・定及び慧解脱を得ること能はずと雖も、而も供養せば、無量の福を獲ん。かくの如き三種を真の福田僧と名づく。
 復一類有りて福田僧と名づく。佛舎利及び佛の形像、並びに諸の法と僧と、聖の制する所の戒とに於て深く敬信を生じ、自ら邪見無く他をも亦然らしめ、能く正法を宣べて一乗を讃歎し、深く因果を信じて常に善願を発し、其の過犯に随って業障を悔除せん。当に知るべし、是の人の三宝を信ずる力、諸の外道に勝るること百千万倍にして、亦四種の転輪聖王に勝る。何に況んや余類の一切衆生をや。鬱金華の然も萎忰すと雖も、猶一切の諸の雑類の華に勝るるが如し。正見の比丘も亦復是の如し、余の衆生に勝るること百千万倍なり。禁戒を毀ると雖も正見を壊せず。是の因縁を以て福田僧と名づく。若し善男子・善女子等、是の如き福田僧を供養せば、得る所の福徳窮尽有ること無く、前の三の真実の僧宝を供養すると、獲る所の功徳正しく等しうして異なること無けん。是の如きの四類の聖・凡の僧宝は、有情を利楽して恒に暫くも捨つること無し。是を僧宝不思議の恩と名づくと。

復た大乗本生心地観経に云く、

 智光長者よ汝諦かに聴け、世と出世との僧に三種有り、菩薩、声聞聖凡衆とにして、能く衆生を益して福田と為る。文殊師利大聖尊は、三世の諸佛以て母と為す。十方の如来の初めて発心するも、皆是文殊教化の力なり。一切世界の諸の有情は、名を聞いて身及び光相を見、并に類に随へる諸の化現を見て、皆佛道を成ずること思議し難し。弥勒菩薩法王子は、初発心より肉を食はず、是の因縁を以て慈氏と名づく。諸の衆生を成熟せんと欲するが為に、第四兜率天の、四十九重の如意殿に處り、昼夜恒に不退行を説き、無数の方便をもて人天を度し、八功徳水の妙華の池に、諸の有縁の者悉く同じく生る。我れ今弟子を弥勒に付す、龍華会中に解脱を得ん。末法中に於ける善男子は、一摶の食だにも衆生に施さば、是の善根を以て弥勒に見え、当に菩提究竟しの道を得べし。舎利弗等の大声聞は、智慧と神通とをもて群生を化す。若し能く解脱戒を成就せば、真に是修行正見の人なり。他の為に説法して大乗を尊ぶ。是の如き福田を第一とす。或は一類の凡夫僧有り、戒品は全からざれども正見を生じ、一乗の微妙の法を讃詠せば、犯に随ひ悔に随ひて障は銷除し、諸の衆生の為に佛の因を成ず。是の如き凡夫も亦僧宝なり。鬱金華の萎忰すと雖も、猶一切の諸の妙華に勝るるが如く、正見の比丘も亦是の如し、四種の輪王も及ばざる所なり。是の如き四類の聖凡僧は、有情を利益して暫くも歇むこと無く、称して世間の良福田と為す。是を僧宝の大恩徳と名づく。

梵網菩薩戒経に云く、

若佛子、自ら出家在家の菩薩、比丘比丘尼の罪過を説き、人をして罪過を説かしめば、罪過の因、罪過の縁、罪過の法、罪過の業あらん。而も菩薩は外道悪人及び二乗の悪人の佛法中の非法非律を説かんを聞いては、常に慈心を生じて是の悪人の輩を教化して、大乗の善信を生ぜしむべし。而るを菩薩反って自ら佛法中の罪過を説くは、是れ菩薩の波羅夷罪なり。

夢窓疎石上人の夢中問答集に云く、

問 末代は禅 教 律の僧も、皆名利にはしりて、行道は廃れたり。かやうの僧を供養せらるることあたらず。かやうの僧の居所を伽藍とて、さのみ所領を寄せられ、所造とて人をわづらはし給ふこと無益なりと申す人あり。その謂れありや。
答 末世に生を受ける受くる人は、皆宿善拙き故に、涯分の果報才学なむどのおはする人も、その先祖に及び給へるは少なし。もし先祖に及ばざる人をば、皆退けられむには、公家・武家に召し使はれ給ふ人も、稀なるべし。先祖に及び給はずといへども、さすがにその子孫として、家風今に残れる故に、王法もいまだ絶えず。武威も亦伝はれり。僧家も亦かくのごとし。古への大師先徳には及び奉らずといへども、さすがにその門葉相続せる故に、教・禅の宗風、いまだ絶えず。
 仏在世の時は、生身の如来を仏宝と名づけ、その金口の説法を法宝と称し、その仏化を助給ひし賢聖を僧宝と号す。仏滅後、末法の時は、木像・絵像等を、仏宝と敬ひ、文字に書き伝へたる経論を法宝と信じ、髪を剃り、袈裟をかけたる者を、僧宝と崇むべし。これ則ち、末世住持の三宝なりと、聖教に定め置けり。真実の三宝は、塵沙法界に遍満し給へども、末世に生れたる人は皆宿善薄き故に、かやうの仏僧を拝むこともなし。その法門を聴聞することもあたはず。しかれども、絵にかき、木に刻める仏像を礼拝し、文字にて書き伝へたる経論を受持し、髪を剃り袈裟をかけたる僧侶を供養し給ふは、ありがたき善縁にあらずや。釈迦の法は滅亡し、弥勒はいまだ出で給はざる、二仏の中間に生まれたらむ人は、三宝の名字をだにも聞くべからず。いはんや今のごとくなる善縁をも結ばんや。もし人末世の住持の三宝を供養せらるる信心の深きこと、仏在世の三宝を供養せし人変はらずは、功徳を受くることも亦変はるべからず。然らば則ち、僧宝の衰へたることを、そしり給はむよりは、自身の信心の古へに及ばざる故に、仏法をも軽忽し、僧侶をも誹謗して、罪業を招く因縁とはなれども、功徳を得る福田にはあらざることを歎き給ふべし。もし今時の僧は、羅漢菩薩のごとくにもあらず。大師先徳にも及び奉らずとて捨て給はば、何ぞただ僧法のみならむや。いかばかり結構して造り立て、絵かき奉る仏像も、生身の如来にこれをたくらべ奉らば、百千無量の一分にも及ぶべからず。真実の法門は、文字言説を離れたる故に、書き伝へたる経巻は、真詮にあらず。しかるを、真仏真詮にはあらぬ仏像経巻をば、さすがに信心を致し給へる人も、僧宝をば真僧にあらずとて、一向に嫌ひ捨て給ふこと、その謂れあるべしや。もししからば、末世の住持の三宝は、唯二宝のみありて、一宝は欠けぬべし。もし又、末世の住持の三宝は、皆いたづらごとと申されば、これ則ち、天魔外道なり。とかく申す及ばず。
 大集月蔵経に云はく、未来末世の時、我が法の中において、頭を剃りて袈裟をかけたりといえへども、禁戒を破りて、放逸なる者あるべし。たとひかくのごとくの僧なりとも、皆これ仏子なり。これを謗せば仏を謗するなり。これを害せば、仏を害するなり。もし人これを供養し護持せば、この人無量の福を得べし。たとへば、世人の真金を無価の宝とするがごとし。もし真金なければ、銀を無価とす。銀なければ銅を宝とす。銅なければ鉄を宝とす。鉄なければ白鑞等を宝とす。仏法も亦かくのごとし。仏を無上の宝とす。仏なき時は、菩薩を無上とす。菩薩なければ羅漢を無上とす。羅漢なければ、得定の凡夫を無上とす。得定の人なければ、持戒の人を無上とす。持戒の人なければ、汚戒の人を無上とす。汚戒の者なければ、頭を剃り袈裟をかけたる者を、無上宝とす。余の外道にたくらぶれば、最尊第一なり。汝ら諸天・諸龍・諸夜叉、我が弟子を擁護して、仏種をして断然せしむることなかるべしと云云。如来の哀憐かくのごとし。僧の行儀の悪しければとて、如来の遺属に背き給ふべからず。酒に酔へる人を見れば、目もくらくなり、足もよろぼひ、舌もすくみ、心も狂ず。かかる過失をば、かねて知りたれども、酒を愛する人は、すべてうとまず。その中にその過失を見て、酒を憎む人は、ただこれ本より下戸にて酒を愛せざる故なり。僧の過失を見て、仏法をうとむ人は、仏法の下戸なる故にあらずや。
 衆生の功徳を出生する者をば、福田と名づく。これに二種あり。悲田と敬田なり。聖賢を帰敬して、物を施し奉るは、敬田なり。下賤の人乃至畜生等を悲愍して、物を施するをば、悲田と名づく。たとひ無智放逸の僧なりとも、これを供養し給はば、悲田の功徳を得給ふ分なからむや。木のきれをそのままにて打ち置きたる時は、善にもならず悪にもならず。もしこの木のきれを、仏の形に刻みて、真仏の想に住して恭敬し奉れば、功徳を得ること、真仏に異ならず。もし又、この木像を軽慢し奉れな、罪業を得ること疑ひなし。心もなき木のきれだにも、かくのごとし。いはんや人たる者は、皆仏性あり。たとひ無智無慚の僧なりとも、信敬せられば福田となり、誹謗せられば、罪業を招き給はむこと、疑ひあるべからず。梵網経には、五百羅漢を別請せむよりは、尊卑親疎を択ばずして、一人の凡僧を、次第請にすることは、その功徳まされりと説けり。ただし、善知識に頼みて、出離の要道を聞かむためならば、道徳ある人を別請するとも、苦しからじと云へり。
 僧の破戒無慚なるを見て、これを誹謗して、我は在家人なれば、かやうなるも苦しからずと思ひ給へるは、僻案なり。一生の報命つきて、閻魔王の前に到り給はむ時、この人は俗人なれば、日来の罪業も苦しからずとて、地獄に入ることを免じ給はむや。聖教に仏弟子の過をそしるを制することは、必ずしも仏弟子をかたひくよしにはあらず。これを謗して、仏法を破壊して大罪を得ることを制せむためなり。かやうな法門は、俗人の御ために申すことなり。さればとて、僧家の破戒無慚なるを苦しからずと申すにはあらず。俗人は僧家の振舞の正理ならぬを見て、誹謗の罪業を忘れ給へり。僧家は又、俗人の誹謗し給ふことは、我等が正理ならぬ責なりとは省みず。僧をそしり法を軽しめ給ふ、僻事なりととがめ申さる。あはれげに、うち返して、僧家の心をば俗人につけ奉り、俗人の心をば僧家に持ち給へることならば、濁世もやがて正法となりなまし。

永平道元上人の正法眼蔵に云く、

供養僧とは、謂ゆる一切三乗の聖衆及び其の支提、幷びに其の形像、塔廟及び凡夫僧に供養す。

法然上人の一百四十五箇条問答に云く、

一つ、破戒の僧、愚痴の僧、供養せんも功徳にて候か。
答う、破戒の僧、愚痴の僧を末の世には仏のごとく貴むべきにて候なり。この御使いに申し候いぬ。聞こし召し候え。

山崎弁栄上人云く、

説四衆過戒
人の悪口を云ってはならぬが、殊に佛法に帰依した人の事を悪く云ふのは、重い罪である。

不増不減経に云く、

 舎利弗よ、即ち此の法身の、恒沙を過ぐる無辺の煩悩に纏はれ、無始の世よりこのかた世間に随順し、波浪に漂流して生死に往来するを、名づけて衆生と為す。舎利弗よ、即ち即ち此の法身の、世間生死苦悩を厭離し、一切の諸有の欲求を棄捨して、十波羅蜜を行じ、八万四千の法門を摂め、菩提行を修するを、名けて菩薩と為す。復次に舎利弗よ、即ち此の法身の一切世間の煩悩使纏を離れ、一切苦を過ぎ、一切煩悩の垢を離れて、清浄を得、彼岸の清浄法中に住し、一切衆生所願の地に到り、一切の境界中に於て究竟通達して更に勝者なく、一切障を離れ一切礙を離れ、一切法中に於て自在力を得たるを名けて如来・応・正遍知と為す。

鳩摩羅多尊者云く、

 且く善悪の報に三時あり。凡そ人、但だ仁は夭に暴は寿く、逆は吉く義は凶なりとのみ見て、便ち因果を亡じ、罪福虚しと謂へり。殊に知らず、影響相随ひて毫釐も忒うこと靡きを。縦ひ百千万劫を経とも、亦磨滅せず。


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