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聞法の意義~仏の教えを聞く心得~

教えを聴聞するとはどういうことなのか

 一体仏教徒はなぜ仏の教えを聞くこと(仏典の読むことも含む)を重要視するのかを考えてみたい。チベット仏教の中興の祖とされるツォンカパ大師の説示を伺うと次のように云っている、

 聴聞〔について〕の 『〔ウダーナ〕 篇』 に、「聴聞により諸法を知るでしょう。聴聞により罪を止めるのです。 聴聞により非利益を捨てるのです。 聴聞により涅槃を得るのです」という四つでもって、聴聞に依って次第に取捨の処を知ることと、 知ってから悪行を退ける戒〔学〕 と、 それから非利益が止滅して善の所縁に心が欲するとおりに住する 〔等持、 禅定の〕 定〔学〕が生ずることと、それから無我の真実を証得する 〔智恵の〕慧学により、輪廻への繋縛の根本を断って解脱を得ることを説かれています。

『悟りへの階梯 チベット仏教の原典・ツォンカパ〔菩提道次第小論〕』

ツルティム・ケサン、藤仲孝司 訳著、星雲社 41頁

  上記の言葉で先ず『ウダーナ』からの引用があるが、これは以下の経典からの引用であろう。

教えを聞いて語のことがらを識別する。 教えを聞いて、悪を行なわない。教えを聞いて、ためにならぬことを避ける。 教えを聞いて、繋縛の覆いの解きほごされたところ(=不死の処)に至る。

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元〔訳〕 岩波文庫 227頁

 聞法の実践は経典に説かれるように、仏法を知る、廃悪修善に勤める、非利益なことを捨てる、涅槃の獲得の四つのためにあるのだという。
 ツォンカパ大師は四つを釈して、善悪の選択取捨、止悪の戒、善業への定、無我証得の慧としておられる。つまり、教えの領解から戒定慧の三学を通して涅槃に至ることが聞法の目的であるいうのである。

浄土宗の弁栄上人は教えを聞くことは自分の感覚以上の世界や道理を前もって知ることができ、それによって我見から解放されることを説いている。

 歴史的に普遍的啓示なる聖典語録等及び歴史的に世界に顕われ行われたる教権文字の真理は光明を照しつつあり。故に学ぶべし習ふべし則るべし依るべし。然れども要するに之に縛せられざらんこと。
天台大師は闇禅と名字僧とを嫌いたり。佛教廣大甚深なり。聖典及び古尊者の示したる亀艦に依って自分の啓示を證明し、また益々向上し無辺の仏法海に優遊せんとするには学解なき闇禅者の能わざる処なり。

『難思光 無称光 超日月光』山崎弁栄 光明会本部 142頁

仏典には先徳による手本が示されているのであるから、大いにして仏道を歩む糧とせよというのである。但し、仏典などはあくまでも本質を発見するための材料であるから、これに縛られては意味がない。
したがって、また云われるには、

 聖典及び祖師の語録等の依るべき処によりて自己の宗教の真理を認むべきことを発見し、是れによりて自己の正しき理解によりて確信を立つるもの。

『難思光 無称光 超日月光』山崎弁栄 光明会本部 143頁

教えを聞く、あるいは仏典を読むことによって、我見から離れることができると弁栄上人は例を出して云っている、

 浄教の徒 雛僧 小経をよみ習い、謂えらく十万億土の彼に浄土あり六方各恒沙の仏土あり みだ仏大光十方を照し六方各大光明重々に無尽と、漠然とは云ながら心の範囲の中に納む想界甚広きにあらずや。小僧は、之を自心の範囲内なり ああ自心の区域広いかなと云わざれども、自ら其の区域の無辺をなせり。禅の小僧が、十万億土なんと云ようなそんな外に大きなことがあるものか、何も皆胸の中なりと理想を書く。其思想の甲と乙との区域分斉大海と一滴とにあらすや。ああ聖教の我らに理想をあたうこと大なるにあらずや。
見よ昔の人には博識の人なりと云とも世界は唐日本天竺にかぎりと、今の地球儀を常に見て居る少年の思想の範囲にも及ばぬ。禅の六祖の如きの大修行者も聖教に接せざれば心界は唯広きものだろうと謂っても、物界の十万億なんと云うような、といようもない大きいものとは想わなんだ。夫故聖経によって思想をいだく小僧にも心の範囲は及ばない。

『難思光 無称光 超日月光』山崎弁栄 光明会本部 204~205頁

 ここで弁栄上人は浄土僧と禅僧を例にして、浄土門は『阿弥陀経』などを拝読することで、体験はまだしていないが法界の無限なることを感覚的に知ることができる。しかし、禅門は不立文字を掲げて、自己以外に別に仏界ということを考えない。
この違いを弁栄上人はさらに例を出して、現代人と昔の人の世界に対する認識の範囲に雲泥の差があることに喩えている。昔はどんなに頭の良い人であっても、世界はインド・中国・日本程度にしか認識範囲がなかったが、現代人は小学校でも地球儀で宇宙のことを学んでいるので、世界の認識範囲は現在の小学生にも及ばないというのである。
したがって、ツォンカパ大師は戒めとして次のように仰せである、

また、諸々の大典籍を実践の要のない説明の法として、〔行持・〕 実践の要である心髄義を説く口訣が 〔教外別伝として〕 別にあると理解して正法自体に説明〔の法〕と修証の法という別々な二つがあると取らえることは、無垢の経・真言と意趣註釈の論書に対して、 大きな尊敬が生ずることの妨げをするし、それらについては、 「内の義を教えない。 外の見聞のみを断つ」といって、軽蔑する処だと取らえる 「法を捨てる業障」を積むことを知るべきです。

『悟りへの階梯 チベット仏教の原典・ツォンカパ〔菩提道次第小論〕』ツルティム・ケサン、藤仲孝司 訳著、星雲社 36頁

よくよく教えを聞いたり、聖教を拝読して勝手な見解にとらわれないようにしなければならない。


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