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長者の十徳~仏教におけるセレブリティの条件

長者の条件

 セレブといえば著名や富豪(長者)のイメージがある。しかしながら、実際のところ現代においてはそのセレブとはどのような人物像であるのかは曖昧であり、しっかりとした条件もないようで、漠然とした形で使われるものである。例えば長者という言葉においては、長者番付なるものもあり、どれだけ稼いでいるかのみを以ってその言葉を当てている。
 実は仏教においても長者の言葉はよく使われ、仏教教団を外護する在家信者としての側面を持つ。代表者としては、スダッタ(須逹)長者、チッタ(質多羅)長者、ウグラ(郁伽)長者、ハッタカ(呵多阿羅婆)長者等である。
 彼らは長者であるから勿論金持ちであるが、仏教における長者は単に富豪というだけでは長者たる資格はない。長者には長者の条件があり十項目が挙げられる。

 臨済宗の僧侶・釈宗演上人の『観音経講話』を見ると以下の十ヶ条だという、

長者ということは、日本では何か財産でも多分にもっている人、それが長者であるように通俗一般に言いならわしているけれども、しかし銭があるばかりでは、決して長者とは云えない。長者というものにはそれぞれ資格が要る。印度ではこういっている。長者に十の徳というものがある。それはちょっと言ってみると、一には性貴、二には位高、三には大富、四には威猛、五には智深、六には年耆、七には行浄、八には礼備、九には上歎、十には下帰、だいたいこういう工合に徳を備えなければ長者とは云えない。

『観音経講話』釈宗演 春秋社 184頁

 この長者十徳説は元々天台大師の説であるが、宗演上人が解りやすく解説しておられるので、上人の説から長者の条件たる十徳を見てみたい。

①性貴

 第一項目は「性貴」である。宗演上人の解釈を見ると、

「そこで第一の性貴というのは、およそ長者たるものは、まずこういう人格が一つ備わっておらなければならない。それはまことに貴いところのものがなければならない。性質が賤しい者では、長者と云われるところの資格が欠けている。」

『観音経講話』釈宗演 春秋社 184頁

 長者にはそれ相応の人格が円満に備わっていなければならないという。たとえ富豪であっても著名で人気を博していても、悪業や罪業を造るような者は長者たる資格はないのである。現代の世の中でも富豪や著名人のよろしくない行動や言動が取り沙汰されるが、そのような人間では第一の条件からして既に外れている。

②位高

二つ目には「位高」である。宗演上人の解釈を見ると、

第二の位高。これももう位といっても位にはいろいろあって、人爵もあれば天爵もあるが、今はその人爵をいうので、やはり世間でいうところの位である。位の尊いものでなければ、人が尊敬いたさないから位の高いことを要する。

『観音経講話』釈宗演 春秋社 184~185頁

長者は仏教でいうところの外護者でもあるから、世間においてはそれだけの地位がなければ、到底教団を外護する力は持てないであろう。またある程度の地位がなければ、世の中の人々もなかなか言うことを聞かないということである。勿論これは長者が在家信者あるから言うことであって、出家者は当然のことながら無位無官を基本とすることは言うまでもない。

③大富

 第三には大富である。宗演上人の解釈を見ると、

三には大富。これは読んで字の通りである。 富の力でなければ仕事ができない。これは一個人においても、一家においても、また一国においても、もとよりその通りで、いかに兵ばかりが強くても、国が富んでいなければ致し方がない。富ということは、いずれの時でも大切である。」

『観音経講話』釈宗演 春秋社 185頁 

 これは文字通り富豪であり、経済力があるということである。経済的な余力がなければ、仏教を外護し様々な支援は叶わない、それ故に長者たる者はそれ相応の富が必要だとするのである。

④猛威

 四つ目は猛威である。宗演上人の解釈を見ると、

第四には猛威。やはり一つの猛威というものがなければならない。 人がこれに対して畏れ慎むだけの威光を備えていなければならない。 そういう徳が必要である。

『観音経講話』釈宗演 春秋社 185頁

 猛威というのは言い換えれば勇猛心があり、どんなことにも果敢に挑みその態度が威光満ちて、多くの人々の頭が自然と下がることであろうか、ある種のカリスマ性を持っていることである。

⑤智深

 五番目は智深である。宗演上人の解釈を見ると、

第五は智深。勇気が勝っていても、智慧が乏しければ、長者の資格が欠けている。今もいった通り、威猛の徳をもっていて、同時に一面には、この智というものを備えていなければならない。 ごく根の深い智慧がなければならない。」

『観音経講話』釈宗演 春秋社 185頁

 前述のような勇猛心があっても、そこに深い智慧がはたらいていなければ、それは単なる猪突猛進でしかない。勇猛なる心も深い智慧に支えられてはじめて遺憾なく発揮できるのである。ここで言う智慧は仏教智慧であろうかと思う。

⑥年耆

 第六には、年耆である。宗演上人の解釈を見ると、

六には年耆。つまり年高しというも同じである。何事も亀の甲より年の功で、実際そうである。若い時には元気があり勇気があるといっても、練れていないところがあって、事を損じ易い。 老人はなかなか貴ぶべものである。もっとも、あまり年をたくさん取ってはいけないけれども、経験を積んで行くには、どうしでも年を重ねなければならない。それで年耆ということが長者の一つになっている。

『観音経講話』釈宗演 春秋社 185頁

 ここで言われるのは単に歳をとっているということではなく、経験が豊富なることを意味している。経験を積むにはある程度の年月が必要であることを言っているのである。前述の智慧に経験が伴ってくると自然とその身心において深い境界が現れてくる、何事にも動ぜずに臨機応変なあり方ができてくるのである。

⑦行浄

 第七には行浄、宗演上人の解釈を見ると、

七には行浄。たとえ今まで覚えて来たような徳が備わっていても、その人の日常行うところが浄くなければならない。

『観音経講話』釈宗演 春秋社 185頁

 たとえ人格がよく備わり、経験豊富で智慧が深くとも、仏の教えるところの戒法に則った日常がなければ、長者たるの資格はないという。これはかなり難しい。富豪になるとか、経験が豊富であるとか、智慧が豊かであるとかに比較して、仏の戒めを遵守することは容易でない。

⑧礼備

 八番目は礼備、宗演上人の解釈を見ると、

八には礼備。やはりそのうえに礼儀作法というものを具備していなければならない。

『観音経講話』釈宗演 春秋社 185頁

 長者たるものは礼儀作法がなっていないといけないという。これは出家者でもそうで、僧侶の作法ができていなければ僧侶たるの資格は認められない。礼拝・焼香・読経のどれひとつ取ってみても僧侶はこれらのことを教え込まれる。それと同じく在家信者にはそれ相応の作法を学び、実践する必要がある。

⑨上歎

 九番目は上歎であり、宗演上人の解釈を見ると、

第九には上歎。その人格に対して、その人よりも上にくらいしているものが歎美するくらいの人でなけばならない。君臣の間柄でもそうである。 君たる人が常に歎美するくらいの徳を備えていなければ、立派な臣ではない。

『観音経講話』釈宗演 春秋社 185~186頁

 これは自分より目上の人から讃えられる人物であるということ。その長者としての人格が上の立場から見ても自然と称賛してしまうようなところがなければならぬのである。

⑩下帰

 そして十番目は下帰である。宗演上人の解釈を見ると、

十には下帰。上から褒められるばかりでなく、自分の目下も常にその人に帰服して、その人を尊敬し、その人を慕うだけの徳をもっていなければならない。

『観音経講話』釈宗演 春秋社 186頁

 これは前述の上歎とは反対に下の者達から尊敬され慕われるような徳を備えているということである。目下から疎まれるようでは長者たるの資格はないとしている。 

十徳は長者の資格

 宗演上人は云わく、

以上、十通りの徳を備えていなければ、長者とは云われない。たんに財産があり、金銭だけを持っているだけでは、長者ということはできない。

『観音経講話』釈宗演 春秋社 186頁

 仏教では財産を多く持ち、著名であるというだけでは、長者として謳われる存在となることはできない。十分な人格的修養が必要とされているのである。

現代に長者はいない~宗演上人の見解~

 宗演上人によれば現代において仏教的長者はいないという、

世間の実際を見ると、身における長者と心における長者とがある。
 十徳を持っているものは心のうえの長者でもあり、また身のうえの長者でもあるが、世間のは身柄は富んでいても、心の貧しい人がたくさんある。
 どちらかというと、多く金銭があり財産のある人は、他の一面、すなわち心の方面から眺めてみると、かえって心のうえは貧しくて飢えている、道徳に飢え宗教心に凍えている人が多い。針の耳の穴のなかを駱駝に乗って通る-財産家というものには、多くの場合においてそういうようなものがたくさんある。小さな針の耳の穴を通ることはできるわけのものではない。それと同じ事で、ただ銭ばかりをもっているやからで、心に信仰もなく道徳もないもので、ほとんど度すべからざるものがある。言わば援けのない憫れなものであるという意味であると思う。そういう意味で、仏教では有財餓鬼ということをいっている。財産はたくさんもっているけれども、その心は餓鬼のごとく飢え凍えているというのである。
 現在、我々が僅かに知りおる人のなかにもそういうふうのがあって、身は富んでおり、家は立派に飾っていて、衣服飲食に贅を尽くし、一見他人からは羨まれる身分の人のように見えるけれども、内容に立ち入ってみると、ずいぶん酷いのがある。まるで廉恥も道徳も欠けているといってよい。まして況んや真面目な宗教信仰とか、最も高いところの精神生活の意義とかいうことは、ほとんど度外に付して、初めからそういうことを自覚しないものが、少なからずある。どっちかというと、心において富んでいる人は身において貧しく、身に富んでいる人は心において貧しいと云うのがよくある例で、身において富んでいる人で、心においても富んでいる人は、なかなか世間に得難いのである。

『観音経講話』釈宗演 春秋社 186~187頁

 宗演上人は、世の中に富豪はたくさんいるが精神的修養が欠けており、外面は長者らしいがその実体は餓鬼と変わらず、これを有財餓鬼と云っており、いわば長者の皮をかぶった餓鬼であると手厳しい態度である。
 逆に精神的修養に富んでいる者は世間的な財がないと云っているがこれは出家者のことであり普通のことだと思うが、宗演上人の云いたいことは仏教における理想は須達長者であるとか、大乗における維摩居士のような存在が理想ということであろうか。
 しかしながら、それは在家者の理想であって出家者の理想ではない。在家者は維摩のように身も心も富んでいることが最終的な努力目標であっても、出家者が財に富んでいることを理想とすることは当てはまらない。出家者はあくまでも、「心において富んでいる人は身において貧しく」が理想である。

釈尊こそ仏教者の理想~心において富んでいる人~

 そこで宗演上人は釈尊こそ自身の理想として挙げている。これは当然に宗演上人ご自身が出家者であることから述べておられるのは言うまでもない。

 例えば釈迦はじめそうである。 なるほど生まれはとにかくも、厳然たる一王国の太子として生まれたけれども、その位置を弊履のごとくに棄てて、身を乞食の境遇にくだしてしまった。その点から見ると、ほとんど一個の乞食であるが、しかしながら、その仏となって世に現われたうえからいうと、今この法蔵を世人に与える―仏は世間に向かって精神的の倉庫を与えるために、我はここに現われたのであると云っている。すなわち釈迦は精神的財産を第一番に求めたのであろうと思う。この点からいうと、やはり釈迦は身において貧しいが、心において富んでいる。孔子もそうである。 身において貧しい人であるが、その代わり心において富んでいた人である。こういう工合の人は、まだその他にもたくさんある。例えばソクラテスもそうである。ソクラテスは最も身において貧しい人である。しかし心においてはこれもはなはだ富んだ人であった。ゆえにいずれも千年二千年三千年近くまで、その財産を多くの人に分かち、しかして尽きるということはないのである。

『観音経講話』釈宗演 春秋社 187頁

 釈尊は財を棄てて精神的財産を求めたのだから、やはり最終的な仏教の理想は精神的に富むことが第一であり、その財産を広く施すのである。いわゆる「法施」ができることが財産であるとする。
 宗演上人は、「こういうことを精神的に眺めてみると、仏は財産家であるといっていい」としている。

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