長者の条件
セレブといえば著名や富豪(長者)のイメージがある。しかしながら、実際のところ現代においてはそのセレブとはどのような人物像であるのかは曖昧であり、しっかりとした条件もないようで、漠然とした形で使われるものである。例えば長者という言葉においては、長者番付なるものもあり、どれだけ稼いでいるかのみを以ってその言葉を当てている。
実は仏教においても長者の言葉はよく使われ、仏教教団を外護する在家信者としての側面を持つ。代表者としては、スダッタ(須逹)長者、チッタ(質多羅)長者、ウグラ(郁伽)長者、ハッタカ(呵多阿羅婆)長者等である。
彼らは長者であるから勿論金持ちであるが、仏教における長者は単に富豪というだけでは長者たる資格はない。長者には長者の条件があり十項目が挙げられる。
臨済宗の僧侶・釈宗演上人の『観音経講話』を見ると以下の十ヶ条だという、
この長者十徳説は元々天台大師の説であるが、宗演上人が解りやすく解説しておられるので、上人の説から長者の条件たる十徳を見てみたい。
①性貴
第一項目は「性貴」である。宗演上人の解釈を見ると、
長者にはそれ相応の人格が円満に備わっていなければならないという。たとえ富豪であっても著名で人気を博していても、悪業や罪業を造るような者は長者たる資格はないのである。現代の世の中でも富豪や著名人のよろしくない行動や言動が取り沙汰されるが、そのような人間では第一の条件からして既に外れている。
②位高
二つ目には「位高」である。宗演上人の解釈を見ると、
長者は仏教でいうところの外護者でもあるから、世間においてはそれだけの地位がなければ、到底教団を外護する力は持てないであろう。またある程度の地位がなければ、世の中の人々もなかなか言うことを聞かないということである。勿論これは長者が在家信者あるから言うことであって、出家者は当然のことながら無位無官を基本とすることは言うまでもない。
③大富
第三には大富である。宗演上人の解釈を見ると、
これは文字通り富豪であり、経済力があるということである。経済的な余力がなければ、仏教を外護し様々な支援は叶わない、それ故に長者たる者はそれ相応の富が必要だとするのである。
④猛威
四つ目は猛威である。宗演上人の解釈を見ると、
猛威というのは言い換えれば勇猛心があり、どんなことにも果敢に挑みその態度が威光満ちて、多くの人々の頭が自然と下がることであろうか、ある種のカリスマ性を持っていることである。
⑤智深
五番目は智深である。宗演上人の解釈を見ると、
前述のような勇猛心があっても、そこに深い智慧がはたらいていなければ、それは単なる猪突猛進でしかない。勇猛なる心も深い智慧に支えられてはじめて遺憾なく発揮できるのである。ここで言う智慧は仏教智慧であろうかと思う。
⑥年耆
第六には、年耆である。宗演上人の解釈を見ると、
ここで言われるのは単に歳をとっているということではなく、経験が豊富なることを意味している。経験を積むにはある程度の年月が必要であることを言っているのである。前述の智慧に経験が伴ってくると自然とその身心において深い境界が現れてくる、何事にも動ぜずに臨機応変なあり方ができてくるのである。
⑦行浄
第七には行浄、宗演上人の解釈を見ると、
たとえ人格がよく備わり、経験豊富で智慧が深くとも、仏の教えるところの戒法に則った日常がなければ、長者たるの資格はないという。これはかなり難しい。富豪になるとか、経験が豊富であるとか、智慧が豊かであるとかに比較して、仏の戒めを遵守することは容易でない。
⑧礼備
八番目は礼備、宗演上人の解釈を見ると、
長者たるものは礼儀作法がなっていないといけないという。これは出家者でもそうで、僧侶の作法ができていなければ僧侶たるの資格は認められない。礼拝・焼香・読経のどれひとつ取ってみても僧侶はこれらのことを教え込まれる。それと同じく在家信者にはそれ相応の作法を学び、実践する必要がある。
⑨上歎
九番目は上歎であり、宗演上人の解釈を見ると、
これは自分より目上の人から讃えられる人物であるということ。その長者としての人格が上の立場から見ても自然と称賛してしまうようなところがなければならぬのである。
⑩下帰
そして十番目は下帰である。宗演上人の解釈を見ると、
これは前述の上歎とは反対に下の者達から尊敬され慕われるような徳を備えているということである。目下から疎まれるようでは長者たるの資格はないとしている。
十徳は長者の資格
宗演上人は云わく、
仏教では財産を多く持ち、著名であるというだけでは、長者として謳われる存在となることはできない。十分な人格的修養が必要とされているのである。
現代に長者はいない~宗演上人の見解~
宗演上人によれば現代において仏教的長者はいないという、
宗演上人は、世の中に富豪はたくさんいるが精神的修養が欠けており、外面は長者らしいがその実体は餓鬼と変わらず、これを有財餓鬼と云っており、いわば長者の皮をかぶった餓鬼であると手厳しい態度である。
逆に精神的修養に富んでいる者は世間的な財がないと云っているがこれは出家者のことであり普通のことだと思うが、宗演上人の云いたいことは仏教における理想は須達長者であるとか、大乗における維摩居士のような存在が理想ということであろうか。
しかしながら、それは在家者の理想であって出家者の理想ではない。在家者は維摩のように身も心も富んでいることが最終的な努力目標であっても、出家者が財に富んでいることを理想とすることは当てはまらない。出家者はあくまでも、「心において富んでいる人は身において貧しく」が理想である。
釈尊こそ仏教者の理想~心において富んでいる人~
そこで宗演上人は釈尊こそ自身の理想として挙げている。これは当然に宗演上人ご自身が出家者であることから述べておられるのは言うまでもない。
釈尊は財を棄てて精神的財産を求めたのだから、やはり最終的な仏教の理想は精神的に富むことが第一であり、その財産を広く施すのである。いわゆる「法施」ができることが財産であるとする。
宗演上人は、「こういうことを精神的に眺めてみると、仏は財産家であるといっていい」としている。