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絵を描くことは再解釈/230729



ずっと絵を描いている子供だった

土曜日はチラシがたくさん入っていて、裏が白いチラシを探すのが楽しみだった。
ツルツルの紙だとボールペンやサインペンじゃないといけないので、鉛筆で描ける普通の白紙が嬉しかった。

教科書、落書きだらけ

友達と話していても何かを描く

いつもノートを持っていて何かを描きたい

まぁでも、そんな子供はよくいるので私も漏れなくそういう子供だったのだろう。
ただただ絵を描くのが好きな子供はたくさんたくさんいる。

学校でもよく賞をもらっていた。
でもよくもらっていたので特に深く考えたことはなく、習字もそうだったので「お、よかったよかった」くらいにしか考えていなかった。

描くことが好きだったのでうまさはそこまで気にしていないとは思っていたけど、小学校の時、高校の時にそれぞれ一人ずつ「あーこの人には勝てないな」と悔しい気持ちになったので、多分しっかり気にしていた。

予備校に入ってそんな井の中の蛙は現実をつきつけられる。
楽しかった絵から、点数をつけられる絵となり、言われなくても描いていた絵が、言われても描きたくなくなった。

大学に入る頃には絵が嫌いになっていた。

どうにもこうにも誰にも敵わなかったのだ

悔しくて描きたくて描いても下手で諦めた。
その「ほんと下手だな自分」という感覚は今でもあるし、特にうまくなってはいない気がするけど、過去の絵を見てみると格段にうまくなっているのである時考えてみた。

卒業してから、いや在学中からももう絵は描いていなかった。
気にせず描いていた落書きでさえ、仲間内だと評価されると気持ちになって、それは「みんなと仲良くしたい」というポリシーに反したので描くのをやめた。

つまり卒業してから15年以上、特に何も描いてもなければ練習もしていない。
なのに、確かにすごく上手くなっている。
あんなに描いていた頃より格段に上手い。

なぜだ

去年、初めて描いた絵画

funeral_1




今まで絵の具を使ってこうして描いたことがなかったので美大で絵を描いていた友達に描き方を教わって、こういうのが描きたいから作家を教えてと言って教えてもらって描いた。

厳しいその友達にすごく褒められた

でも今まで何もしてきていない

ていうか初めて描いたし

なんでだろ?

昔より格段に優れたものといえば言語化と、物事の本質を見る目、これは自信がある。

予備校の先生か誰かが昔言っていた。

「デッサンというのはモチーフの本質を見ること、表現すること」

こんなことを言っていて「うーんそれはむずい」と思った記憶がある。
あと「本質わかってないけど描けてる」人もいっぱいいるので、まぁテクニックと感覚半々くらいか。

理解しつつ表現する技術というべきか

少し前から狂ったように絵を描いている。
トレースなので絵なのか?と思うと半々くらいだけど、とにかく全てを忘れられる。

色んな写真を見返して、まるでそれを再取り込み、再解釈するような感覚がする。
別に上からなぞるだけならやらなくてもいいのになぁと思いながら、言葉にできない「再取り込みしたい」という感覚に突き動かされて描いている。

本気で時間を忘れてしまう。

絵を描きながら「境界線の無いモチーフが苦手」とわかった。
人の表情、花、動物、そういったモチーフ。
やりたくないのでさっさとやりたい。

その分、人の身体、特に手や首などはとても楽しくて、「ああこのラインがこの人を形作っているのか」という再解釈が楽しい。
工業製品なども境界線がはっきりしているので描きやすい。

なぞるだけなのに改めて自分を、その人を、かつての恋人や友達を、推しを、もう一度自分の中に入れている気持ち。
言葉やもの、思い出ではなく、描くという行為を通して改めて解釈したい。

今まで自分の絵が嫌いで公開することが嫌だった。
今は私の絵を通して表現として、私の大切なもの、私を形作ったものを見て欲しいと思えるようになった。

「見てほしい」と思えるその感覚が、最近一番嬉しい。
受動的でなんでも受け身な自分から出る「能動」は本気で欲しているものだから、だから嬉しい。

自分にもそういう欲求があったんだ、と思えるのが、最近ハマっているトレース作業なのだろうと思う。

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