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Hope


わたしの長い長い内的世界を探す旅は終わったと思います。

もう、自分の世界に興味がないです。
だからここで書く理由がなくなってしまって、もっと言うと不特定多数に求めた理解も必要なくなりました。

単純に理解者ができたからです

しかも特定の人ではなくて、回り回ればそれは自分だったのだと思います。

I know what I am.

わたしはわたしをわかっているし、上にも下にも左右にも伸び代を持って、時々ダメで、時々良くて、そんな自分で良いんだと思いました。

変わる自分だって自分で、明日、言うことが変わっているかもしれないのも自分。
自分であることに振り回されて自分を失くすくらいなら、最初から持たないし期待しない。

一貫したいのが人で、変わりたくないのも人

でも一貫なんてできないし、変わりたくなくても変わってしまうのが人で、だけど能動的に変えるという行動は本能が阻止するようです。

わたしもその本能があるのですが、変わりたい方が大きいらしいです。

外の世界に出ます。
べつに準備ができたわけでも、何かの確約ができたわけでもない。

でももう中に留まること自体が無駄に思えています。
人生は思った以上に短くて、愛するには長すぎます。

その二律背反を人はいつまでも抱えて生きる、それが人生なんだと思います。

ここはまたいつか書くかもしれないし、書かないかもしれない。
でも多分、戻ってくることも留まることもありません。

よく「ずっとブログやってるのに消すのもったいない」と言われますが確かにポートフォリオにはなります。
だけど特にこの20年、何も変わらなかったので「変わらなかったことが、わかったこと」と意味づけました。

別に文章が好きなわけでも文学が好きなわけでもない

むしろ人が作った話に興味がずっと持てないし、文学にも興味ありません。
わたしの求める共感に一番近く、得意だった方法なだけで、この能力は他でも沢山応用可能であることに気づきました。

文筆にこだわる必要もなければ、嫌う必要もない

多分こうして、相変わらず全てにどっちつかずで生きると思いますが、そのわたしが何かを信じたり「この人を愛する」と決めた時に、どんな景色が見えるのか知りたいです。

それくらいに惹きつけられるものを知りたい

それくらいに自分を失くすものを知りたい

「これは失いたくない」という感情を知りたいです。
すべては死ぬ時に「あー楽しかった」と思うため。

人生は思ったより短いし、躊躇するにはもったいないし、愛するには長すぎる

だから皆さんももっともっと大切な、目の前にいつもありすぎて呆れるくらいありきたりな幸せに気づけることを願っています。

それを気づかせることがわたしの命題だとも思いますし。

たぶん、いつものように意味不明です。

皆さん、お元気で。
今まで本当にありがとうございました。
とても楽しかったです。

あ、ふつーにめちゃくちゃ元気なのでそこら辺も大丈夫です。

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