のて 42
例えばあの夏休みの野良猫が、すこし雪解け、あたたかさを識った頃合いだとして。
こたつの中で丸くなるのだろうかだとか、
膝の上を選んでくれるのだろうかだとか、
見かけるまですらそんなことをちらりほらりしてくれたらいい、狡。
違う人の手の中で愛でられる"その時"は、
猫だって、"どうしてみてるの"と鳴いてるかもしれなくて。
野良猫のたらればだってどれも間違いじゃないから、寂しくて、独りになってしまうんだろうか。
ほかも撫でるその指に、すこし似た全然別の柄。見てておもしろいたのしさには懐いただけじゃ物足り無くなる日が来ると、降りられない木の上から見ているのかもしれない、のか。
せめて納得しようと何度も繰り返し見ては傷ついて、どうしようもなくて、「そのときでは無い」今をゆっくり雪に溶かした、
「いやだ」。
違う手に撫でられる野良猫、同じように、どうしようもないあの時の気持ちで見届けるのだろうか。性格の悪い、でもそうじゃなきゃ足元の雪にかじかんで、霜焼けでもうあるけなくなってしまうから。
拾われるまではまだ、もどかしいリアリティも純新無垢にかくれんぼしたすきも、ぜんぶぜんぶそのままで。
夏休みはもう、いつの間にか終わったのに。
おすまし顔、尖った爪をこそりと隠して今日も、
「にゃあ」。
おわり
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