親のコネで入った会社を3度辞めている


最近仕事が無く春風に包まれながらアコギの練習をしていると、兄の事をふと思い出しました。

私には5個上の兄がいます。

子どもの頃は2階から突き落とされたり、寝てる時に布団に火をつけられて燃やされそうになったりとハードな関係でしたが、私が大学3年の時に彼が酔いながら部屋に来て「お前が世界を変えるんだ」と泣きながら万札をばら撒いてから関係が修復し2人で飲むようになりました。
(万札はこっそり回収しました。)

兄はミュージシャンを目指していました。

ベニヤ板1枚で遮られた私と彼の世界ではあまりにもギターの音が煩わしく、これも殺し合いの火種の素でした。
いつもレッチリのカリフォルニケイションのイントロを弾いており、コードが覚えられず中々Aメロに辿り着かない事に当事者でない私ですらイライラする中、兄はその数倍キレ散らかしていました。そして酒を飲み、壁をタコ殴りして発狂、絶望し、私の部屋に来て「オレはどうすればいいんだ」とギターの弦を引きちぎって体に巻き泣いていました。
今思うと彼は相当やられていたのかも知れません。

大学3年の冬。
兄と雪解けをしてから半年。
発狂すること480回目の3月に兄と兄の彼女と3人で阿佐ヶ谷へ飲みに行きました。

兄の彼女は年下のギャルでした。
どこが好きなんだと聞いたら、ヤってる最中に「本日も晴天也」と叫ぶところが可愛いんだと嬉しそうに語っていました。
ああ、この人の妹でよかったな。

彼女は門限がある為帰宅。
2人酔い潰れ近所の公園でスト缶を倒しながらブランコを漕いでいると、兄が笑いながら「オレは音楽で革命を起こしたかった」と呟きました。

「レッチリのコピバンばかりしていた癖に良く自己陶酔出来るな」と冷めた目で見ていましたが、彼の絶望し発狂しながらも未来に憧れ、光を孕んでいた目は死んでいました。

この瞬間ミュージシャンとしての兄が死んだのです。

大学を卒業してから5年間、彼なりに音楽に向き合い、そしてどこかで折り合いをつけたのでしょう。
ブランコが横並びの遊具で良かったなと思いながら、雪が積もっていたので取り敢えず一掴みして食べました。変な虫も一緒に食べちゃった。

兄が革命を諦めたのは26歳の3月の事でした。
そして私も26歳になり、3月になりました。
斉藤和義のベリーベリーストロングを聴いています。
兄よ、私もそっち側に行きそうです。

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