砂遊び

「意味を問う」時代から「強度を味わう」時代へ

新しい地獄とは、内側から毒すること

先日、『何者』や『時をかけるゆとり』など平成を代表する直木賞作家、朝井リョウさんの記事を読んだ。

要点
・平成は対立するものが無くなり、自分の内なる個性が重要視されるようになった
・「対立をなくすこと」「自分らしく」は響きのいい言葉ではあるが、対立がないと自分の存在を感じることはできない
・自分と社会との繋がりについて考え続けた結果、他者を傷つける行為に走るのは男性に多い

自分に当てはまる節がたくさんあったので、下記では本や自分自身の原体験を用いながら、自分なりの解釈や再定義したことについて述べていく。

「生きる意味」を問い続けた儚い3年間

まずは自身の原体験から。

2015年4月に東北大学に編入学。それまでの2年間は、予備校と家の往復で「社会」との接点が極端に少なかったこともあり、編入学当初はワクワクの感情で満たされていた。


半年くらい経ったある日、「そもそも、どうして自分は大学を編入してきたんだろう?」と我に返ってしまった。大抵の人は大学に編入するまでに決めていることが多いが、自分の場合だと「偏差値の高い大学に編入学して人生を一発逆転させたい」。今思うと本当に安直だったし、近代的生き方の最たる例。

周りの同学年が就活を行なっている一方、自分自身は「なんか違う」と思い、そこから社会との繋がりや生きる意味を問い続けた儚い3年間が始まる。

生きる意味に明確な答えは無い

そこで、人よりも行動の数を増やし経験に昇華することに集中した。

学外での活動だと、学生団体(現在はNPO法人)の立ち上げ・記事の編集・営業・大学の学祭のMr.コンテスト出場・モデル活動など挙げるとキリがない。今思うと、黒歴史の連続である(笑)

さらに、『本を読む人だけが手にするもの』をきっかけに、読書だと3年間で800冊以上読んだと思う。気になる著者が出てきたら、その人が出している本を図書館で借りて読み漁ったり、ネットの記事で今に至るまでのストーリーを調べたりした。

また、大学5年生の時に起業もやってみた。しかし、自分自身の価値観・コンパスと社会で求められていることに対しズレがあったため、2018年5月にクロージング。リスクをとった挑戦ではなく、無謀な行為だったと思う。


「もうダメだ」


物理的に仙台から離れたいと思い、2018年5月に福井に逃げた。約半年間、関わる人との接点数が極端に減る一方で、平野啓一郎さんや村上龍さんなどの純文学に触れまくった。今でもそうだが、読書をする時間が現実から離れられる唯一の拠り所かもしれない。

ただ、3ヶ月もすると「寂しい」という感情が少しずつ芽生えるようになり、孤独には感じないくらい程度に他者と繋がる必要があると感じた。

人の間と書いて人間のように、他者との関わりを通じて、人は人間になったり「自分なる像」が分かったりするのだろう。


今は仙台に戻り、多くの人がイメージしている「大学生像」のように、他愛も無い日常生活を送っている。


最近になって分かった。結局、明確な答えは何もない。あるとすれば、人生の意味(目標)は自分が行動する際の動機付け(口実)にすぎないし、敢えて作るなら自分以外の誰かの為であったほうがいい、と。


無意味な自己矛盾に葛藤していただけである。


「意味」を問う時代は、近代から生まれた

主観が色濃くなったので、少し鎮火する。

数日前、図書館で借りた『人生の教科書 世の中のルール』 終章に朝井リョウさんの記事や自分の伝えたいことの論点がまとめられていた。(どの章も学校では教えてくれないことばかりで、極端な話、学校教育の道徳の時間で使ってもいいのでは?と思うレベル。)

ここでは、宮台真司さんの言葉を引用。

頑張れば、国も地域も会社も家族も自分も豊かになるという時代は終わりました。これ以上物が豊かになる(ために頑張る)よりも、コミュニケーションを今ここで楽しめるような生き方が重要になってきます。
もともと女の子は、天下国家や立身出世から見放されていたこともあって、「今ここ」のコミュニケーションを楽しんで生きることの達人です。ところが男の子は、「意味のゲタ」の歯が折れて、右往左往せずにはいられません。

「平成」の元号変更や東京五輪を機に、3〜5年かけて一気に女性的生き方が浸透したり、あるいはある種のパラレルワールドに突入したりしていくのでは?と自分は推測している。

また、宮台真司さんの言葉を元に、自分なりにマトリックス表を作ってみた。

意味を問うような生き方は、成長社会のように物やサービスで空白埋めていく時代には適しているだろう。しかし、昨今は「埋める空白」が無い成熟社会だから、一人ひとりが生き方や幸福感を持った方がいい。

砂遊びに没頭しろ?!

大学の講義で倫理学を受講していたことがある。

倫理学を簡単に説明すると、物事を「外側」から見るか「内側」から見るかを明らかにしていく学問のこと。経営学や心理学と比較すると抽象的すぎて難しいかもしれないが、理解できると日常生活に応用できる範囲がとても広い。

当時は腑に落ちなかったことが、今になって少しずつ理解できるようになった話を例えながら閉じよう。

目的を見出すことは、「外側」に答えを求めることである。一方、砂遊びをしている子供達は、砂遊びに夢中になるという「内側」に答えを出している。目的を見出すことなく行為そのものに集中しよう。

昨今では、「遊び」という言葉で括られている。具体的には、他者から理解されなくても苦に感じないこと(没頭できること)や、自我から離れられるヨガや瞑想などが挙げられる。

4月から東北大学7年生…(笑)になるため、2019年度は「学問」を切り口に解いて(問いて)いく。多分、本格的に社会に出るとなると、まとまった時間をとることが難しいし、一人遊びとしてはちょうどいい気がしたから。


以上です。


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