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誰かが得れば、誰かが失う。

最近よく耳にする「修理する権利」。
EUやアメリカで、電化製品や自動車などのメーカーが、修理できる商品に対して新製品の購入を促すこと、自社製品の修理を独占すること、修理方法を非開示にすることなど、これらを禁ずる「修理する権利」の法の整備が進んでいるようだ。


確かに、これまで車やパソコン、スマホなどの不調があった時、さらに家具が壊れた時に、メーカーに修理依頼を持ち込むと、買い替えた方が安価で早いと言われ、私は専門知識がないがために釈然としない気持ちを抱えながら買い替えを選択してきたと思う。


切ない消費社会」で、壊れやすいミシンで台頭したミシンメーカーの話を書いた。
こういうのを現代では、「計画的陳腐化」と呼ぶらしい。

ただ、ごく身近な生活レベルに落とし込んで想像してみると、メーカーのそこで働く従業員にも、商品開発までに要した時間と努力があり、さらにプライベートには一人の人間としての生活がある。

かたや「修理する権利」は消費者目線からの納得できる言い分だ。

そもそも、誰かが得れば誰かが失う。
これがベースの資本主義社会の中で、全ての人が納得する答えをだそうとするならば、
そしてさらに環境問題までを配慮するならば、
着目すべきは、消費者目線の「修理する権利」だけではなく、社会の仕組みそのものから考え直さなければいけないような気もする。
責められるべきはメーカーではなく、そうしなければ生きられなくなってしまった社会の仕組みなのかもしれない。

売り手と買い手が、お互いを思いやり、公正さを担保しながら清らかに流れていく社会。
そんな社会が創出できると、とてもいいなと思っている。


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