路上観察について考える(1)。

路上観察は、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(リンク)によると以下のように説明される行為である。

身の周りのあらゆる事物を観察の対象として,無目的かつ無意識的な路上の物件の面白さをあるがままに観察しあるいは採集する
行動,フィールドワーク。

比較的、歴史的経緯がはっきりしている語ではあるが、現代に進むにつれて多少意味は変化しているかもしれない。だが、ここで考える分にはこの意味で進めていこう。

路上観察の特異性とは私は「路上」ではなく「観察」という点にあると私は思っている。一般的に「観察」という言葉が使用される場面は「何を」というのが明瞭に定められている。

キッズネットより「観察の例」を観察の例としよう。

世の中には「インゲンマメ」があり、それの「成長」という点に着目して観察という行為を行っている。一般に観察といえば、この「インゲンマメ」にあたる部分が明瞭に決まっていることが多い。「観察対象」の存在が今まで誰も気づいていなかったものという例は科学研究でも主流ではないと考える(ちがうかも、ここは定義の仕方次第か?)。

では、路上観察の例としてパスカさんの例を見てみたい。

これは「歯の字の米」の観察を行っている。世の中には「歯の字の米」があり、それの「デザイン」という点に着目して観察をしている。

路上観察の場合、何をの部分が通常の観察に比べて、常に新規性が求められる。「どう観察するか」ではなく「何を観察するか」それが肝である。

いままで、「歯の字の米」に着目した人がどれだけいただろうか。おそらくは多少はいるが、「さやえんどう」に比べてはかなり少ないだろう。(そうかなあ、そういうことにしておこう)

この「歯の字の米」もそうであるが、路上観察のインパクトは「何を観察するか」にかなり左右される。

そして「何を観察するか」に気づく感覚が必要であると私は思っている。人によっては目の前に「歯の字」があったとして「歯の字」を観察すると面白いということを想起するのは困難であると思う。

中には複数の路上観察対象物を持っている人がいる。こういう人に「路上観察の感覚があるなあ」と思い、すごいなあと思ったりする。

私は、路上観察の感覚が乏しいタイプであると自覚している。どんどん路上観察のネタがわいてくるタイプではない。では、そこをどのようにカバーするかというと「努力」というものになる。

既存の路上観察のパターンから、類似かつ現在観察対象になっていないものを組み合わせから探しだし、テーマが決まってからそれを路上に探しに出ることにしている。

例えばそうだな、「歯の米の字」というのは「字のデザイン」の観察とみなせる。そういえば歯医者のマスコットキャラ収集というのも見たことがある。歯科は個人経営が多い上に、デザインの遊びが多いようだ。数が多くて独自性が多そうなものって「小学校」とか「幼稚園」になるかな。「幼稚園の看板」はあんまり掘り下げがなさそうだ。「幼稚園のマスコット」や「幼稚園の壁の壁画」とかも狙いどころかもしれない。

と、いった感じである。

見かけて収集しながら観察を進めていくのではなく、テーマを決めてから探しに出るのだ。あーこれは大変である。毎テーマごと街に繰り出してひたすらそれ一点で写真を撮って回るのです。

今日はひとまず以上。

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