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イメージ豊かに演じるということ

「声の対象」というトピックに関連して追加でもうひとつ。

「自分」を対象にして声を出すというのはかなり複雑な現象だが、思うに、それは更に「自分の身体」と「自分の言語」に対しての発声へと分けられるはずだ。ふとした瞬間に呟く「ちょっと疲れてんのかな?」みたいな自分を客体視する発声と、推理や、推論のような思考が漏れ出た声と。
 
今日は「イメージ豊かに演じる」てのはどんな状態のことだろう? ってことについて書いてみる。よく俳優は「もっとイメージを持って!」とか「イメージが伝わるように!」なんて指示を受けるだろう。ただ「イメージ」という単語はクセモノで、これについて詳しく語りだしたらキリが無いって程の重要ワード、キー概念だ。イメージとは何かについてメルロー=ポンティは……なんてことを語り出すこともできるんだろうが、そんなことは一旦、置いておこう。ここでは単に想像の中での「絵」のこと「姿」のこと、だと思ってもらいたい。「印象」とか「偏見」をイメージと呼ぶこともあるが、ここではまず前者の意味、「像」だ。

ここでも『人形の家』を例に取ろう。ラスト・シーンでノーラは以下のようなことを言う。


ノーラ  小さい頃は私はお父さんに従ってた。お父さんは私を人形みたいに可愛がった。そしてその人形は父から夫であるあなたに手渡された!

広田のなんとなく超訳


もちろん、ノーラは実際には人間であって人形ではない。ここで語られているのは、一人前扱いされない自分の像、イメージだ。それをノーラは「人形」という言葉で、夫にもわかる形で「提示」しているわけだ。これが劇の中で起きていること。

さて、どう演じたらこれがイメージ豊かな演技、とやらになるのだろう? なるべくシンプルに考えてみよう。イメージ豊かな演技、というのは要するに見ている人に、つまり共演者と観客に、「像」「絵」「図」が伝わるということだ。上記の台詞で言えば、自分が人形扱いされた「絵」、そしてその人形が父から夫に手渡されるという「図」、あるいはその構造、風景、みじめな姿、などが伝わるとイメージ豊か、だ。ここでは仮にそうさせて欲しい。何せイメージについて話を膨らませると際限が無くなるので、なるべく限定的に話をしたい。それでは、共演者や観客に「像」が伝わるためには、どんな演技をすればいいのだろうか? いくつかのプロセス/領域に区切って考えてみよう。
 
当然ながら「人形みたいに可愛がられた私」というイメージを相手に伝えるためには、まずはノーラを演じる俳優がその「絵」をしっかりと想像/把握できていなければいけないだろう。「像」を自分が把握すること、掌握すること、これがイメージ豊かな演技の第一段階だ。もちろん「ぼんやりとなんとなく」しかイメージが持てていなかったり、「パッと閃いてすぐ消える」ような形でしかイメージが維持できないようでは、それを相手に伝えることはできない。自分の中で閃いた発想、アイディア、悪い予感、などは、言語化/記号化されなければ相手に伝えることはできない。
 
しかし、「ぼんやりとなんとなく」のイメージや「一瞬の閃き」としてのイメージは、演じる上でもとても大切だ。恐らくノーラも、まずはこの劇の時間を通じて自分が、いや、女、というもの全般が、男から人間扱いを受けていない、少なくとも大人扱いを受けていない、という構図を直感的に把握した筈で、それは一瞬の閃きのようなものとして、ぼんやりなんとなく、頭の中に浮かんだのだろう。要するにノーラは「フェミニズム」とか「家父長制」なんて言葉を一切使わずに、だけどそれらの言葉が表しているそのエッセンス、肝の部分に思い至った、見えていなかった真実に触れたわけだ。

ここで注意して欲しいのは、言葉/台詞に先立ってイメージがある、ということ。イメージは言語よりも身体的で、ゆえに言語に先立って存在する。よりしっかりとした言葉になるより以前にイメージが先行すること、これは体験的にも理解しやすいのではないだろうか? たとえば私たちはよく「ショックが大きくて言葉にならない」とか、そんな経験をする。すばらしい風景を前にして、とか、とんでもなく美味しい料理を食べて、とか、そういった感動が起きている場面では、まず感覚(イメージ)があって、言葉は後からやってくる。いや、付け加えられる。
 
言語以前にイメージがある。台詞より前に「絵」がある。どんな言い方でもいいが、とにかく、イメージ豊かに演じるためには「台詞」を出発地点にして演技を考えてはならない、ということだ。俳優はいつも「台詞」という入口から入って、台詞以前のイメージに遡って考えて欲しい。遡行して、逆行して考えて欲しい。
 
台詞というのはひとつの「結果」だ。氷山の一角だ。イメージ豊かな演技をするためには、その結果をもたらす原因について考えする必要があるし、埋まっている氷山の土台部分に目を凝らして欲しい。それが、まず自分がイメージを把握/掌握する、という段階でするべきことだ。
 
自分であるイメージを思いついただけでは、それを十分に伝えられた/表現できた、とは言えない。では、どうやってそのイメージを伝えたらいいのか? まずは言語化されていない、つまり、整理されていないイメージを、自分の頭の中で整える。言語化する。図式化する。つまり、配置する。

ノーラもそういった作業をしているに違いない。「父が私を人形として可愛がり、それを手渡された夫がまた人形として可愛がった。それはまるで、私が私の子どもたちを可愛がっているみたいだ。その図式と同じだ」と、ノーラは自分のイメージを整理し、言語化する。「一人前扱いされていないのでは?」というぼんやりとしした予感/イメージは、上記のような形で言語として配置される。……言語以前にイメージがあり、その非言語的なイメージを言葉にすれば台詞となり、動きにすれば動作、仕草、移動となる。どちらも「演技」だ。
 
俳優は、まず最初に「台詞」を渡されてしまうので、うっかりそれがスタート地点だと思いこんでしまう。そうではない。その台詞/言葉を発した登場人物は、言葉以前にイメージを持っており、そのイメージは、全部台詞になっているわけじゃなくて、動きに転化してる場合も多い。何度でも言うが、要するに「台詞以前にイメージがある」ということ。これが大前提。俳優はイメージを言語化し、自分の脳内、言語世界(「象徴界」とか言ってみてもいいのかもしれない)に配置する、そしてその後、あるいはそれと同時に、それを、対象に向けて伝える。他者の前に、自分のイメージを提示する。

 
さて。長くなってきたが、実は本当に僕が言いたいのはこれからだ。それは、イメージを提示する際に大切なことについての話。結論から言おう。イメージを提示する際には、自分の頭ではなく、他人の頭というキャンバスにその「絵」を描いて欲しい、ということ。どういうことか。
 
ノーラが「人形」という言葉を使って、上述のような台詞を語る際には、彼女はそれを自分の内部で吟味している段階にはすでにない。彼女はイメージを対象に向けて提示している。声の対象は、自分ではなく他者、夫・ヘルメルに向いている。イメージ豊かな演技、とは他者にイメージが伝わる演技のことだった。自分の内部でイメージを把握/掌握し、言葉に配置していただけでは、イメージを他者に伝えたとはまだ言えない。まだ弱い。では、どうするのか? その画材を使って、他者の頭のキャンバスに「絵」を描いてほしいのだ。
 
ノーラの話した内容はひとつの構図であり、絵であり、風景だ。「私が自分の子どもを可愛がるように、夫は私を可愛がる。考えてみればそのような形式で父も私を可愛がっていた」。彼女が感じたこの社会の縮図、差別の再生産の体系、あるいは、世界の全体像を伝えるために、ノーラはヘルメルの頭の中にこの絵を描かなければならないはずだ。
 
では、どうやったら相手の頭に上手に絵が描けるのか? うまくイメージが伝達できるのか? 魔法があるわけじゃない。単純に、しっかり、しつこく、説明するのだ。拍子抜けのような結論かもしれないが、しっかりイメージを伝えるためには、自分が自分の伝えるべき内容を詳しく把握し、それを確実に伝達する、そのことに執念を持つしかあるまい。では、執念を持って伝えるとは何か? それは、相手を疑いながら確認を重ねることだ。相手がどのように自分の言葉、イメージを受け取ったか、または受け取り損ねたかを、しつこく追跡するということだ。

例えば、嵐の夜に、幼い子どもに留守番を頼む親のことを考えてみてほしい。「ちゃんと窓を閉めるんだよ? 鍵をかけてね? 絶対に窓を開けちゃダメだよ!」などと、親は子どもに一生懸命伝えるだろう。どうしても伝えたいと強く願っている場合、親は子どものよそ見を見逃さないだろう。伝えるためには、何度も同じ言葉を繰り返すかもしれないし、復唱させるかもしれない。時には、大きな声を出したり、感情的になることだってあるだろう。なにせ今日は激しい嵐だ。窓を開けっ放しで寝てしまったらドエライことになってしまう。そういった時に親がどんな様子で相手に迫るか、相手にちゃんとイメージを伝えようとするか、それを想像してほしい。そして、その様に演じて欲しい。
 
これが執念を持って伝えるということの一例。その時に親が子にしていることが、相手の頭のキャンバスに絵を描こうとしている、ということ。どうしても相手に内容を伝えたいと思ったら、何よりも大事なのは「伝わっていない」という相手の状態を見逃さないことだ。
 
イメージ豊かに演じる、とは、ふわふわとした柔らかな表情で夢見がちに演じることではない。相手に伝達されたかどうかに疑いを持ち、執念を持って相手の理解を求める、ということだ。「対象に向かって応答を求める」ということだ。

「明確に対象を定めよ」そして「その対象に向かって応答を求めよ」というね。要するに、良い演技ってのはそれだけのことなのかもしれない。「対象に向かって応答を求める」。このことの精神論についてはまた改めて…。どうやらこの「求める」ってのが演技の肝みたいに僕は感じているんだけど…とても苦手な方が多いのよね。

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