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ワンスペース問題の考察/どうやって相手に近づいたらしんどくないんだろう? 

2021年12月27日のツイートより

今日は「ワンスペース問題」について書いてみたい。と、この話を始める前に断っておくとこれは完全に僕の造語だ。「なんだそれ?」だと思うのでまずはそこから説明したい。

多くの俳優に対して僕はよく「相手をよく見て」「よく聞いて」「よく受けて」という意味のことを言うが、そうすると人によっては「目を逸らさずひたすら相手を見つめ続ける」現象が起きる。正面を向いて相手役を見続けるのだ。会話のシーンで相手役に対してずっと正対していると、相手と自分との間のひとつの空間(ワンスペース)が出来、そこでずっと演技を続けることになる。僕はこれを「ワンスペース問題」と名付けて、なんとか克服するべき課題だと見なすことにした。

では、それの何が問題だというのか? この状態は相手をちゃんと見ているし、少なくとも多くの注意を払っているのだから一概には否定できないじゃないか、と思う人もいるだろう。うむ。確かにこれは多くのことを受け取れる状態にはあるのかもしれない。けれど、なんだか不自然だ。だって考えてもみて欲しい。はたして日常生活で私たちはそんな風に人を真正面から見つめ続けているだろうか? 実際の生活で私たちはあちこち目を逸しながら話す。テレビを見たり、机に置かれた筆記用具を見たり、窓の外を見たり。つまり、相手をじっと見つめ続けるのはリアルじゃないよね? という話。だから僕はこの不自然さを解消したい。

俳優がこの状態に陥ってしまうのにはいくつかの複合的な原因があるだろう。もちろん人にも依るが、根本的には「相手を見なきゃ、聞かなきゃ」、つまり「受け取らなければ」という強すぎる意識が、リアルを越えて相手への過度な集中を生んでいると思われる。要するに、舞台上で脱力/リラックスが出来ていないということだ。

では、どうしてリラックスできないのだろう? すごく簡単に答えるとそれは「怖いから」ではないだろうか。失敗できない状況だったり、相手役に迷惑をかけてはいけないという思いだったり、要するに、状況や相手に対してビビること、恐れることが私たちの体を強張らせ、リラックスから遠ざけている。結果として「正面を向き続ける」というワンスペース問題が発生しているのではないだろうか。

実は「正面を向く」という行為は、言葉で書くと勇ましい印象だが、位置関係としては守備的なものだ。正面を向くことは相手に対して一番、隙の無い自分を見せることでもある。試しにいくつか正面を向く場面を想像してみよう。そこでは緊張とか、警戒などが強い場合が多いことに気がつく。たとえば上司に相対する部下、意中の相手に告白する若者、とかね。もちろん「面接」や「接客」、はたまた「取り調べ」なんていう場面では、正面を向くことが状況によって要請される。あるいは剣道とか柔道とか、格闘技の試合でも相手に対して正面を向くが、これらはすべて「正面が一番隙が無い」からだと言える。

よく漫画などで強キャラが強キャラであることを表現するために、あえて敵に対して横とか後ろを向いて「いつでもいいぜ?」なんてやっているでしょう? あれは自分の力量に圧倒的な自信を持つ強キャラが「隙を見せる」ことによってあえて危険な状況に身を晒し、それでも勝つってめちゃ強くね? ということを示す演出なわけです。つまり、正面を向いて構える、は危険度が低い、守備的な位置関係、ということ。あたかも打ち解けていない初めてのデートみたいな位置だと言える。対人関係において恐れが先に立つ俳優は、たとえ横並びに座らせてもなんとか上半身だけでも正面に向き直って守備的な位置/臨戦態勢/危険が少ない姿勢を、ほとんど無意識的に取ろうとする。だって隙だらけの「いつでもいいぜ?」状態は危険だもん。怖いもん。つまるところ、対人へのビビりが「ワンスペース」を選択させているのではないだろうか。

では、どうやったらビビりは解消できるのか? 実はいろいろと方法がある。ちょっと脱線するけどついでに書いておこう。まず、大切なのは「ビビっている自分」を否定しないことだ。だって本当に怖いんだもん。他人に対して何も感じない、ゴミ箱が隣にあるのと人間が隣にいる区別がつかない、なんて状態より、ビビっている方が俳優としてよっぽどマシだ。だってその人は他者に対して鋭敏だものね。反応できる状態にあるってことだものね。だからビビってる自分を温かく抱きしめてやってほしい。「そうかそうか怖いんだね」と。特に稽古の初期段階では人見知りする俳優も多いだろうから、いきなり打ち解けた位置関係、「いつでもいいぜ?」状態を作る必要は無い。焦る必要もない。しんどいものはしんどい。無理にそれをすると「この人の事はゴミ箱だと思おう」「お客さんはじゃがいもだ」みたいな、鈍感さを志向する意識になってしまうから要注意。当たり前だけど、お客さんはじゃがいもではない。焦らず、時間をかけて自分の緊張がほぐれていくのを待ってあげることが大切だ。

相手役に触る演技をする際にも同じことが言える。本当はビビっているのにそれを無視して「親しくなったことにする」と、体が勝手に拒否反応を起こしてしまう。その拒否反応を無理に抑えた結果として生じるのが「されるがまま状態」だ。手を握られても、抱きしめられても、引っ張られても、身体は無反応。本当はビビっているから拒否したいのだけど、役柄上はそれができないので無になる、てな訳だ。

演技の中では、俳優同士の実際の人間関係よりも濃い関係性が求められることが多い。たとえば親友の役とか、恋人の役、家族の役、どれも非常に関係が濃い、ものすごく親密な間柄だ。稽古の初期段階、まだ人見知りを発動しているような段階で、いきなりそういった「すごく親しい」間柄を演じようとすると、体が拒否反応を起こして「無」になってしまうことがある。手を握られても、脱力のまま。これを私は「デッドハンド」と名づけました(笑) しかし結構、演技の中でこのデッドハンド状態になってしまう人は多いのではないだろうか。僕はそれを「大変だよね」とは思うけど、パフォーマンスとしてクオリティが高いとは評価しない。やっぱり演じるからには相手役にしっかり反応してほしい。たとえ拒絶してはいけない場面における拒絶であっても無反応よりはずっといい。その方がずっとその場の真実に対して正直であるし、表現としての質は高い。拒絶の態度が出てしまったあとで、「どうやったら拒絶せずにいられるだろうか?」ってことをみんなで提案しあうこともできる。要するに、間違ったものであれ、ちゃんとその場で起きた出来事に反応していれば、それは演技を考える上での材料になっていくわけで、一方で、無反応から何かを生み出すことはかなり難しい。真に避けるべき態度がどちらなのかは明らかだ。

なので「デッドハンド」を避けるためにはとりあえず「そうか怖いんだね」と自分を抱きしめてやることが重要だと思う。ビビるならビビれ。その上で、徐々に距離感を詰めていく。正面から斜向かい、そして横並び。段々と。徐々にでいい。そして、いろいろ進んだあとでようやくやれるのが、たとえば『水』という作品のシトラとヒソップのラストシーンでやった「背面」を取る位置関係。あんなもんいきなりやったら大抵の人はビビります。後ろ側の人も、前側の人もね。

アマヤドリ『水』より。撮影・赤坂久美

強い台詞を言わなきゃいけないシーンでは「逆に遠くにいっちゃう」というのもひとつの手だ。上の写真は親密さや強い繋がりを表現するために距離を近づけた例だが、その反対に「遠さ」を意図的に作るアプローチも時に有効だ。『青いポスト』の終盤、リオとエリカの姉妹が「距離感のデザインが」などと言うシーンで採用したのはそれ。近くで演じるのがしんどい/怖いならむしろ遠くへ離れてみたらどうだろう? と試してみたらうまくいった。あの場面では物理的に離れることによって心理的に近い言葉、強い台詞が出せるようになった。

アマヤドリ『青いポスト』 撮影・赤坂久美

いずれにせよ前提として「ビビる自分を否定しない」のが大事。身体の接近、接触にどの程度抵抗感があるのかは俳優さんによって違うから、段々と、無理なく進めていけるのが理想。もちろん、それでも「えいやっ!」とジャンプするしかない場面はあるのだけどね。そこは「度胸」で乗り越えましょう。

他にも、徐々に接近する具体的な方法として「駅だとしよう」てのがある。ふたりが立ち話をしている時に真正面を向き合っている図って、演劇だとよく見るけど現実ではあんまり見ないでしょう? うまく横並びができる場面、それは、駅のホームよ。電車を待っている時、人は横並びになる。駅だと思えば、たとえ肩が触れ合うぐらい近くにいても、そんなに「近いな、怖いな」とは感じないで済むはずだ。立ち話で真正面を向いて話していると、上司と部下、あるいは取引先とのやりとり、みたいな硬さが出てしまうので、そんな時は「駅だとしよう」。自然に横並びになって自然な立ち位置、距離になる。

言い換えればこれらの努力は、いかにして相手のパーソナルスペースに侵入するか? 自分のパーソナルスペースに相手を招き入れてやるか? という問題への取組みだとも言える。うまくATフィールドを中和する方法というかね。正面から切り裂いて、フィールド突破! とはなかなか対人関係ではいきませんので……。って急にエヴァンゲリオンの話が出ちゃいましたが。えー、ちなみに『青いポスト』終盤で双子が「はんぶんこ」というシーンを演じている時には、横並びの位置関係・構図を取りました。


アマヤドリ『青いポスト』再演 撮影・赤坂久美


同シーンの初演時 あ、双子の立ち位置逆になったんだ。photo by bozzo

この時は、正面に何か見るべき対象があってふたりで並んでいる、という想定があったのですね。結果として、二人の距離は触れ合うほど近く、けれど決して、見つめ合いではない。


いい加減、話を戻そう。「ワンスペース問題」の考察だ。ここまで俳優が対人への恐れ・ビビりから真正面の位置を取り、結果としてワンスペース問題に至る場合について書いてきた。だが、どうも原因はそれだけではないような気がする。恐らく、もうひとつの大きな原因として「意識の分散のスタイルの差」があるんじゃないか? と、僕は思う。

「意識の分散」てのは平田オリザさんの用語で、簡単に言えば「ながら」でいろんな演技をしてる時の集中の様式。朝、学校に行く前の高校生と母親との会話、などを想像してほしい。お互い、何か作業をしながら話が進むだろう。ご飯を食べながら、鞄を整理しながら、会話は進む。両方の作業に適度に集中しつつ、だ。その、「あちこちに注意が払えていて、かつ、会話にも相手役にも注意が払えている状態」を指して「意識の分散」という概念がある(と広田は理解している)わけですが、意識の分散のやり方・様式にも個性がある。スタイルがある。と、思うのです僕は。多重タスクの得手・不得手といいますか。

「ワンスペース問題」は「見つめすぎてひとつのスペースで会話が進んでしまう」問題だったが、その問題のもうひとつの側面として「見るのをやめると注意が途切れる」という現象があるように思う。どういうことか。

どうも人間には、目線を外している相手に対して集中しつつ、相手を感じながら会話するのを好む人と、話をする時にはしっかり相手を見ていたいタイプの人がいるらしい。僕は完全に前者。ふたりで正面に座って話していても見つめ続けているとしんどいのよね……。これはどっちが良いとか悪いとかの話ではない。差異がある、という話。で、「話をする時にはしっかり相手を見ていたい」、いわば「見つめる派」の人は、無理に目線を外すと、相手から意識が途切れてしまう傾向が強い。きれいに無視できてしまうのだ。なので、その種の俳優さんに無理にそういった構図で演技をしてもらうと、急に相手に演技が届かなくなることが多い。

今のところ、画期的な解決策みたいなものには至っていない。というか、この公演(上記掲載写真の二本立て公演)期間中に「ワンスペース問題」を生む背景のひとつとしてビビり以外の問題、すなわち、集中のスタイルの問題があるのでは? という認識に至ったという段階。解決案ないんかい! と思われるかもしれないが、僕にとっては画期的な進歩だった。問題の本質がしっかりと正確に把握できれば、解決は半ばまで来ていると言える。ここからは僕もまた稽古場で俳優たちと一緒に考えていきたい。

「見つめる派」の人は、「見ていないと相手役から意識が途切れてしまう」から、「相手役の演技をちゃんと見なきゃ、聞かなきゃ、受けなきゃ」と思えば思うほどに正面に位置を取り、ワンスペース問題に陥っていく、という構図がある、んじゃないかなあ、という仮説。おそらくこの問題を解決するヒントは、医療関係の情報の中にもあるような気がする。たとえば発達障害や自閉スペクトラム症の研究の過程で、コミュニケーションと集中の様式、そのバリエーションと発達のプロセスについて言語化されているであろうから。

最後に念の為繰り返すがこれは優劣の話ではない。僕自身はいわゆる「見つめる派」ではないが、それでうまくいく場面ばかりじゃない。目を逸しがちな人間がコミュニケーションに問題を生じさせることも多い。「なんで目を逸らすの?」となじられたりね。僕などは無意識的に「正面」を避け、常に斜めに構えて対人の緊張を逃しておきたい人なので、大昔、接客業のアルバイトをしている時にはよく怒られたものだ。「ちゃんとお客様と正面で向き合え!」と。あれはびっくりしたなあ……。そんなこと人に言われるまで考えたことも無かったし、自分では「ちゃんと正面向いてるやんけ!」と思っていた。バイト先の店長に何度も体をクイっと直されて、ああ、確かに斜めになっとるわ、マジか、と驚いたものだ……。簡単でシンプルな解答はおそらく無い。だからこそ、俳優が個々に自分のスタイルを知ることが重要だろうと思う。


今日は随分と長くなってしまったが最後に思いつきの雑談を。

ワンスペース問題が起きがちな俳優さんは、視覚優位で世界を捉えているのではないか? という仮説が僕にはある。なんの実験も科学的根拠もない直感と経験則ですが、視覚優位か、聴覚優位か、はひとつのヒントではないかな、と思う。劇作家の界隈ではこれはよく言われることで「あなたは目で書く作家だね」「君は耳で書く作家だよな」みたいな。ちなみに広田は「耳」派だろうと自分では思ってます。『水』で沢山イメージシーン書いたけど、やっぱり音の情報、音からの想像が自分は膨らみ易いのです。これもまあ、特性ですな。

俳優さんに対してはあんまり言われないことだけど、実は「目で演じる俳優」「耳で演じる俳優」がいるんじゃないかと思うのだ。もちろん「目力すごいよね!」という発信の話ではなくて、主に受信する時にどっちの感覚器官が優位か、つまり、他者を捉える時に耳が重要か? 目が重要か? というスタイルの差の話。これは言い換えれば「ええ声よりもヴィジュアル重視」派か「ヴィジュアルよりもええ声重視」派か、って問題なのかなあ。何より、自分がどういう感覚を中心に他者を捉えてるか? それを知ることが重要。

同じ人でも場面、相手に依ってもコミュニケーションのスタイルは変化するんでしょうけどね。とりあえずの仮説として、音声を中心に他者を捉えている人は目線を切っていても意識が途切れづらいんじゃないか、というものがあるわけです。逆に視覚優位で物事を捉えていると、目線を切ると意識が途切れがち、なのではないかな、と。まあ、雑な議論ですが個人的にはそんな予感がしています。

何にせよ、ポーズを覚えないことだ。この位置関係ならうまくいく! とか、こういう人間関係ならこの距離になるはず! なんていう鉄則は無い。なるべく本質を掴もうとして悪あがきを続け、それ意外はなるべく可変なものとして残しておくことが重要だ。たしかに型に嵌めた方が安定する。ブレない。誰だって本番は安定させたいものね。だけど、型は手放す。なるべく本質の小さい部分だけを掴んで、あとは手放すこと。演技も、執筆も、人生も。そうありたいもんだと思う。

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