なぜ文芸メディアじゃないWEBメディアで「文学」をするのか?──多数派じゃないと生きられないわたしたち

 ライターを職業としてはじめてまだ日は浅いけれど、そのなかで痛感したことがある。それは、「WEBを主戦場とするライター」は文章そのものだけで業界を生き抜いているというひとがまずいないということだった。
 もちろん、文章のクオリティは技術だけじゃなく経験や感覚に裏付けられるところもあるけれど、ぼくが言いたいのはそういうことじゃない。書き手を効果的にキャラクター化するプロモーション力とか、そういう文章の外部の重要度が非常に高いという話であり、その評価の基準となる原稿料も「PV」という定量指標があるがゆえに「広告力」により査定される。
 WEBという環境によりもたらされた不特定多数のメディアたちが自己組織化するように今の業界が形作られ、最適化されてきた。特定の領域に特化したコンテンツ作りなど、検索性を基準としたサイト構造があたりまえになり、またいつでもどこでも接続可能な気軽さから、「情報を手早く届ける」ことが価値として共有されている。活字を読む人は減ったと言われているけれど、WEBメディアを通して「ことば」に触れる機会はずっと多くなった気がする。それは言い換えると(これも以前の記事で言及したけれど)、ほとんどのひとがかつてより日々多くの「ことば」に曝されているということになる。大量のことばが迅速に消費されるのがいまのWEBメディアだと、ぼくは捉えている。

 そうした現状で、ぼくがずっとこだわってきた「文学」というフィールドはその対極にある。文章は手早く消費可能なものじゃないし、そこに書かれている「情報」は即効性もなければ利便性も定かではない。むしろ、読むという行為を通して「いかに思考するか」というプロセスが重視されるものもあり、なかには「意味」ですらないものもある。そうしたものは間違いなくWEBメディアにとってまず最初に切り捨てられるべきものだろう。

いわゆる「小説家が食っていけない」問題

 相容れないならばかかわらなければいい、我々には我々の世界があるし、そこには求めた人だけが接続すればいい。という考えはわからないでもない。むしろ究極的にはそれが理想で、文学を読んだり書いたりする営みは、(少なくともぼくにとっては)社会的な資本主義的な価値や承認とかとぜんぜん別な話になる。しかし、その態度でいると現実問題として食べていけないのが非常に困る。小説を読み、そして書くために必要なのは何よりも時間で、時間を得るためにはお金がいる。すると人生のほとんどの時間を捧げるもの、つまり「文学そのもの」でお金を稼げないと、文学をすることすらできない。兼業とか専業とか、さまざまなスタイルでの文学への関わりはもちろんある。ただ、現状では「ほんとうに文学しかできないひと」がひじょうに淘汰されやすい仕組みになっている。小説家として一定の評価を受けているひとでさえ、小説だけでは食っていけてないなんてことも珍しくない。

 一方で、WEBメディアは「書く」仕事ができるひとを常に求めている。もちろんWEBメディアが求める「書く」は小説家のそれとはぜんぜんちがうけれども、技術的には明らかにとんでもなく「書ける」ひとたちよりも、「書く」という技術がほとんど備わっていない「書きたい」ひとたちのほうがはるかに多くの仕事を得ているという現実がある。
 ニーズとか、そういう問題はもちろんわかるけれども、このことは個人的にとても辛い。経験うんぬんがなくてもWEBライターとして誰でもすぐに書きはじめられることはすばらしいのはいうまでもないが、これは「意味」と「伝える」という機能ばかりが優先されて文章から表現性が損なわれ続けている原因にもなっている。だれでもわかって、だれでも共感できる文章を、義務教育を受けた人間ならばだれでも書ける文章で書いたものがお金になっている。
 これはもちろん当然そうなるべくしてなっている。なるべくしてなっているのだけれど、同時にこれは「わたしたちは多数派じゃなければ生きられない」ということと同じになる。

文芸メディアじゃないWEBメディアに作家をひっぱりだすこと

 作家が作家の仕事に集中しながら生きていくということを考えると、そもそも小説じたいがもっと読まれる世の中じゃないと無理な話で、どれだけ文芸メディアをぶちたてようが、いまの構造、つまり「文章の読まれかた」そのものが変わらなければダメなんじゃないか、と最近は考えるようになってきた。
 そのためにも、「偶然に文学作品に触れてしまう」というシチュエーションをもっと多く作らなくちゃいけないだろう。読むとか読まないはもちろん一人ひとりの自由意志によるけれども、その偶然がなければそもそも何かが変わりようもない。ぼくが「文芸メディアで小説や詩や短歌や批評を載せても意味がない」と考えている一番の理由はこれだ。たぶん、いまはゲリラ的なかたちで文学が世の中に点在していてもいいんじゃないか。この点在はコミュニティの形成とおなじレベルで重要だとおもう。

***

  電子書籍でたまに小説を寄稿したり、書評や批評を書いたりすることを仕事にしてみると、やっぱりどこかで世の中と調整しないといけないことがどうしても出てくる。掲載する文章や内容もそうだし、TwitterなどのSNS上の発言だったりもあって、いろいろ神経を使わないといけないことも出てくる。発信意識というか、それじたいがけっこうしんどく感じる。
 むかし、友だちと芥川賞候補が出たらその受賞予想をツイキャスで流したりしていた。作者にへんなあだ名を勝手につけたり、作品を気ままにいじったり、本気で批評したりしていて、それはもちろんそれらの作品が「書かれた」というそのことじたいが好きだからそうできたわけで、ほんの2年ほど前でしかないそのときが、いますごく遠くに感じる。あのときはまちがいなくたのしかった。そのたのしさで仕事をしようと「そこから始まった」のにもかかわらず、いまは仕事で「そこを目指している」という感覚がある。
 好き勝手にしゃべるとか、そうした表層のたのしさじゃない。友だちとワイワイやりながら、それぞれの価値観をときに戦わせるみたいな、そんな感じのヤツ。10年後くらいにそこまで戻ってこれたらいいな、とおもう。月日とともにいろんなものが変わってゆく。みんな、ものかきになっていったからこそ、いつかみんなで回帰したい。

さいきんあった良いニュース。友だちが芥川賞をとった話↓


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大滝瓶太

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