ノルウェイの森セット

「ノルウェイの森(村上春樹)」の英訳を日本語に再翻訳してみた。

翻訳の勉強会、というのを作家と学者の友だちとここ2、3年ほどのんびりやっているのだけれど、これがなかなかおもしろい。

もともと「翻訳ってどうなっているの?」みたいなところから出発して、日本人作家の作品で英訳されたものを再翻訳することをはじめた。ぼく自身、翻訳をはじめてまだ日が浅いけれど、翻訳をやるに当たって重要なのは「和訳じゃない」という認識を持つことだということはやればやるほど痛感する。

これについては、「文芸翻訳入門」や「翻訳のストラテジー」、「本当の翻訳の話をしよう」という本のなかで非常に詳しく述べられている。1つの理由として翻訳の困難さを語ることはできないものの、その複雑さはそもそも言語は1対1対応するわけもなく、「解釈」というものが否応なく生じてしまうということに由来しているようにおもえる。

ぼくらが今やっている翻訳の勉強会では統一的な目標やコンセプトは掲げていない。とにかく、いまは「おもしろいからやっている」という感じで、実際に翻訳の実践を通して「言語表現としての思考」みたいなものが顕著に現れていることに、少なくともぼくはおもしろさを実感している。

というわけで、今回は以前の勉強会で題材になった「ノルウェイの森」の冒頭読み比べの例として、原文と英訳、ぼくの再翻訳を公開(後悔?)する。けっこう意識的にやり散らかしているので、「全然ちげぇじゃねぇか!」というご批判に対して、あらかじめご容赦ください。

「ノルウェイの森」村上春樹

 僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港のビルの上に立つ旗や、BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った。
 飛行機が着陸を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの「ノルウェイの森」だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。
 僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとしていた。やがてドイツ人のスチュワーデスがやってきて、気分がわるいのかと英語で訊いた。大丈夫、少し目まいがしただけだと僕は答えた。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です、ありがとう」と僕はいった。スチュワーデスはにっこりと笑って行ってしまい、音楽はビリー・ジョエルの曲に変った。僕は頭を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。
 飛行機が完全にストップして、人々がシートベルトを外し、物入れの中からバッグやら上着やらを取り出し始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。僕は草の匂いをかぎ、肌に風を感じ、鳥の声を聴いた。知れは一九六九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。
 前と同じスチュワーデスがやってきて、僕の隣に腰を下ろし、もう大丈夫かと訊ねた。
「大丈夫です、ありがとう。ちょっと哀しくなっただけだから。(It’s all right now, thank you. I only felt lonely, you know)」と僕は言って微笑んだ。
「Well, I feel same way, same thing, once in a while. I know what you mean.(そういうこと私にもときどきありますよ。よくわかります)」彼女はそう言って首を振り、席から立ち上がってとても素敵な笑顔を僕に向けてくれた。「I hope you’ll have a nice trip. Auf Wiedershen!(よいご旅行を。さようなら)」
「Auf Wiedershen!」と僕も言った。

 十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思い出すことができる。何日かつづいたやわらかな雨に夏のあいだのほこりをすっかり洗い流された山肌は深く鮮やかな青みをたたえ、十月の風はすすきの穂をあちこちで揺らせ、細長い雲が凍りつくような青い天頂にぴったりとはりついていた。空は高く、じっと見ていると目が痛くなるほどだった。風は草原をわたり、彼女の髪をかすかに揺らせて雑木林に抜けていった。梢の葉がさらさらと音を立て、遠くの方で犬の鳴く声が聞こえた。まるで別世界の入り口から聞こえてくるような小さくかすんだ鳴き声だった。その他にはどんな物音もなかった。どんな物音も我々の耳には届かなかった。誰一人ともすれ違わなかった。まっ赤な鳥が二羽草原の中から何かに怯えたようにとびあがって雑木林の方に飛んでいくのを見かけただけだった。歩きながら直子は僕に井戸の話をしてくれた。

英訳(ジェイ・ルービン)

I was 37 then, strapped in my seat as the huge 747 plunged through dense cloud cover on approach to Hamburg airport. Cold November rains drenched the earth, lending everything the gloomy air of a Flemish landscape: the ground crew in waterproofs, a flag atop a squat airport building, a BMW billboard. So – Germany again.
Once the plane was on the ground, soft music began to flow from the ceiling speakers: a sweet orchestral cover version of the Beatles' “Norwegian Wood”. The melody never failed to send a shudder through me, but this time it hit me harder than ever.
I bent forward, my face in my hands to keep my skull from splitting open. Before long one of the German stewardesses approached and asked in English if I were sick.
“No,” I said, “just dizzy.”
“Are you sure?”
“Yes, I'm sure. Thanks.”
She smiled and left, and the music changed to a Billy Joel tune. I straightened up and looked out of the window at the dark clouds hanging over the North Sea, thinking of all I had lost in the course of my life: times gone for ever, friends who had died or disappeared, feelings I would never know again.
The plane reached the gate. People began unfastening their seatbelts and pulling luggage from the overhead lockers, and all the while I was in the meadow. I could smell the grass, feel the wind on my face, hear the cries of the birds. Autumn 1969 and soon I would be 20. The stewardess came to check on me again. This time she sat next to me and asked if I was all right.
“I'm fine, thanks,” I said with a smile. “Just feeling kind of blue.
“I know what you mean,” she said. “It happens to me, too every once in a while.”
She stood and gave me a lovely smile. “Well, then, have a nice trip. Auf Wiedersehen.”
“Auf Wiedersehen.”

Eighteen years have gone by, and still I can bring back every detail of that day in the meadow. Washed clean of summer's dust by days of gentle rain, the mountains wore a deep, brilliant green. The October breeze set white fronds of head high grasses swaying. One long streak of cloud hung pasted across a dome of frozen blue. It almost hurt to look at that far-off sky. A puff of wind swept across the meadow and through her hair before it slipped into the woods to rustle branches and send back Snatches of distant barking - a hazy sound that seemed to reach us from the doorway to another World. We heard no other sounds. We met no other people. We saw only two bright red birds leap startled from the centre of the meadow and dart into the woods. As we ambled along, Naoko spoke to me of Wells.

大滝瓶太(英語→日本語)

 三十七歳だった僕はそのときボーイング747の座席でシートベルトを締めていて、ジャンボ機は分厚い雲を突き抜けハンブルク空港に着陸しようとしていた。大地は冷たい十一月の雨に濡れ、レインコートを着た地上の作業員たちや低い空港ビルの上に立つ旗、それからBMWの広告など、そのなにもかもをフランドル地方を包む陰鬱な空気に預けているかのようだった。またしてもドイツだ。
 飛行機が着陸すると、天井のスピーカーからやわらかな音楽が流れ出した。やさしい音色でオーケストラ・ヴァージョンに編曲されたビートルズの「ノルウェイの森」。そのメロディは間違いなくある感情を僕にもたらしたのだけれど、しかしこのときかつてないほど強く僕の琴線に触れた。
 僕は前屈みになって、頭が割れて中身が出ないように両手で顔を覆った。しばらくしてドイツ人のスチュワーデスがこっちへ来て、具合が悪いのですかと英語でたずねてきた。
「いや、ちょっととめまいがしただけです」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ありがとう」
 彼女は笑顔を見せて去っていき、そして機内に流れる音楽はビリー・ジョエル的なものになった。姿勢をただして窓の外の北海の上にぶら下がった暗い雲を見つめながら、人生で失ってきたすべてについて考えていた。永遠に過ぎ去ってしまった時間や、死んだりいなくなったりした友人、あるいは二度と抱くことのないだろう感情を。
 飛行機はゲートに着いた。乗客たちがシートベルトをほどき頭上のロッカーから荷物を引っ張りしているさなか、僕の意識は草原のただなかにあった。草の匂いがして、風が顔を撫でるのも感じたし、鳥の鳴き声だって聞こえた。一九六九年の秋、僕は二十歳になろうとしていた。もう一度さっきのスチュワーデスがやってきて、今度は僕のとなりに座ってほんとうに大丈夫ですかとたずねた。
「大丈夫だよ、ありがとう」僕は笑顔でいった。「ちょっとかなしくなっただけですから」
「わかります」と彼女はいった。「わたしにもたまにありますから。たまにですけれど、定期的に」
 彼女は立ち上がると愛くるしい笑顔をくれた。「それでは良い旅を。アウフ・ヴィーダーゼーエン」
「アウフ・ヴィーダーゼーエン」

 十八年の歳月が流れても、いまだに草原でのあの日のことはなにもかも細部まで思い出すことができる。夏のほこりは数日間のやさしい雨に洗い流され、山々の生き生きとした深い緑は色褪せていった。頭の高さにある白いヤシの葉は十月の寒風に揺れ、一筋の長い雲が冷たく青い天球に貼りついていて、空のかなたに視線を伸ばすには目が痛かった。一陣の風が彼女の髪をなびかせて草原を駆け抜けると木々にぶつかって幾筋にも分かれてかさついた音を鳴らし、獣の遠吠えが響き渡った。このかすかな音は僕らを別の世界へと誘う入り口のように思えた。それ以外になにも音はなく、僕ら以外に誰もいなかった。僕らが見たのは真っ赤な鳥のつがいだけで、おどろいたように草原の真ん中から飛び立つとあっというまに森のなかへと消えていった。よりそって歩きながら、直子は井戸の話をしてくれた。

翻訳についての注釈

ぼくの訳の正確さについては置いといて、とにかく「解釈」を文章として表出させることを意識した。これは勉強の名目でそうしているという意味合いが強いのだけれど、他のひとの訳文などを見ても解釈が強く出ていて、それがそもそも面白かったりする。

さて、村上春樹の文章とジェイ・ルービンの翻訳を比べてみるとわかるのだけれど、ジェイ・ルービンは「原文に忠実」と言うよりは「リーダビリティを伸ばす」といった方針の翻訳を行っている。

例えば最初の段落にある、

そんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。(原文)

という表現は、

lending everything the gloomy air of a Flemish landscape

というように書かれている。ここはけっこう再翻訳に苦労して、パッと読んで「Flemish landscape」を「フランドル派の絵画の背景」と訳すのはちょっと無理がありそうな気がする。

ぼくはといえば、

そのなにもかもをフランドル地方を包む陰鬱な空気に預けているかのようだった。

と訳している。しかしよく考えてみれば、ドイツはフランドル地方じゃない(はず)なので、「フランドル派の絵画」と訳さないと意味が通らないのかもしれないが。

ジェイ・ルービンは「原文を省略する」と言うことも行っていて、

飛行機が着陸を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。

は、

Once the plane was on the ground, soft music began to flow from the ceiling speakers

と訳されている。細かな描写を思い切ってそぎ落としていて、このあたりは「正確さ」に焦点を当てると意見が割れそうなところだ。

個人的にちょっと思い切って訳してみたところといえば、引用箇所の最後の方の、

We saw only two bright red birds leap startled from the centre of the meadow and dart into the woods.

という文章だ。ぼくは、

僕らが見たのは真っ赤な鳥のつがいだけで、おどろいたように草原の真ん中から飛び立つとあっというまに森のなかへと消えていった。

と訳してみた。ここは原文は

まっ赤な鳥が二羽草原の中から何かに怯えたようにとびあがって雑木林の方に飛んでいくのを見かけただけだった。

となっているけれど、個人的に「二羽」でなく「つがい」と訳したいと考えたのだけれど、これはぼくの「解釈」だ。

「真っ赤な鳥」というものがどこか非現実的で、なにかを象徴するメタファー(村上春樹が好きなやつ)と読めたので、「二羽であること」に重要性を感じたからだ。

ともあれ、こういうことの正しさはさておき、翻訳以前に「読書のおもしろさ」はこういうものじゃないかとぼくは思う。実際に自分で手を動かしてみると、「自分がどう読んだか」を意識的に問うことができるんじゃないか。

翻訳してみておもったことなど

作家や作品の特徴を客観的に捉えて、「厳密かつ正確であること」が良い翻訳なんじゃないかとおもっていたが、それは果たしてどうなのだろう。もちろん、ぼくは日本語と英語以外は全然読めないので、フランス語やスペイン語など他の言語の小説で主観の強い翻訳ばかりが出回っても困るというのはなくはない。でも、「作家の文章が読みたいのか」それとも「面白い文章を読みたいのか」といわれれば間違いなく後者だ。

以前、「翻訳家は語学のプロであって、言語表現のプロではない」と主張する方にあったことがあるけれど、ぼくとしてはそのスタンスには非常に強く否定的だ。

翻訳は自身の表現欲のみに溺れてはならないけれど、「自分がどのように作品と向き合ったか」という思考プロセスすべてが否応なく生じてしまうということを受け入れた上で、結果的に生じる「言語表現」について肯定的であるべきだと思う。

というわけで、皆さんもためしに翻訳をやってみてほしい!


※翻訳についての勉強記録はこちらのマガジンにまとめています


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