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【第4回】「変な小説」とはなにか?

 一人の老婆が強い好奇心にかられて窓から身を投げだし、落っこちて死んでしまった。
 別の老婆が窓から身を乗りだして、死んだ老婆を見下ろしはじめた。ところが強い好奇心にかられてまたしても窓から身を投げだし、落っこちて死んでしまった。
 それから三人目、四人目、五人目の老婆が窓から身を投げだした。
 六人目の老婆が窓から身を投げだしたとき、私は連中を見るのにうんざりして、マリツェフスキー市場に向かった。そこでは、目の見えない一人の男に手編みのショールがプレゼントされたらしい。

──ダニイル・ハルムス『落ちて行く老婆たち』

 変な小説が読みたい。
 この企画「#RTした人の小説を読みに行く をやってみた」のひとつのモチベーションにもなっているのがこの感情なのだけれども、しかしながらなにをもって「変な」と形容するのか、ぼく自身でも確信を持てないでいる。「変な小説」とはなんだろう、と折に触れておもう。
「変な小説」とは、なにか一般的な「小説らしさ」からの逸脱が個性になっている小説だといってしまうのはかんたんだ。ただ、もし「小説らしさ」なるものを規定することができたらそこからの逸脱も説明できてしまい、それは「小説らしさ」があるゆえに「小説らしい小説」として回収されてしまい、つまるところ「変」でもなんでもなくなってしまう。でもぼくが考えたいのはそんな詭弁なんかじゃない。あ、これ変だ、という感慨からはじめ、「変であること」を出発点として小説のことを考えたい。説明できなさ以上の説明不要さから、説明を必要とするべつの概念のことを、ぼくは考えたい。

2つの変な小説

 そんなとき頼りになる友人に小澤裕之さんがいる。ロシア文学の研究者である小澤さんと知り合ったのは6年か7年くらいまえで、当時はぼくもかれも博士課程の大学院生だった。詳しくは書かないけれど、当時のかれはいまぼくがやっているこの企画のようなことをしていて、かれの後を引き継ぐかたちでやっているというわけではないのだけれど、しかし評を書くたびにじぶんがかれの影響を受けているということを強く感じる。
 その小澤さんの専門はロシア・アヴァンギャルドの詩人や小説家がおこなった言語表現であり、書籍化もされた博士論文はダニイル・ハルムスという「変な」作家を扱っている。「変な小説」を多数翻訳しているスラヴ文学者・沼野充義先生の教え子でもある小澤さんの小説への好奇心は広く、それゆえか(?)「小説としてまとまりの良い作品」以上に「小説という定型を壊していくような作品」をどちらかといえば好んでいるような印象だ。いわばかれは「変な小説」の大家から学んだ「変な小説」を愛する若い研究者で、ぼくにとって一番の「変な小説の専門家」だといえる。
 冒頭に掲げたのは、かれの研究をまとめた書籍『理知のむこう ダニイル・ハルムスの手法と詩学』のまえがきに引用されているハルムスの作品だ。これを読めばとりあえず直感的に「変さ」をかんじとれるんじゃないかとおもう。こうした紹介を小澤さんは好まないだろうけど、あえてぼくはこういっておきたい気持ちがある。

 この「#RTした人の小説を読みに行く をやってみた」をはじめたとき、ちょうど小澤さんとSkypeで話す機会があった。そこでぼくは、
「変な小説を読みたいんだよね」
 といってみたのが小澤さんが薦めてくれたのが、「消えちゃった(コッパード)」、「誰がドルンチナを連れ戻したか(イスマイル・カダレ)」の2つだった。

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