「エモい」という記号化された感情とWEBメディアの文章

「これエモくないすか?」
 ということをいわれ、
「なにそれ?」
 と返したのは、たぶん2年か3年かまえのことだったとおもう。
 ことばはいつも知らないうちに次々とどこかから生まれ、ある程度パッケージ化された状態で情弱のぼくの手元に届くわけだけれど、「草食系」とか「まじ卍」とか、それらがたくさんのひとに使われるなかで意味は固定されていく。特定の意味を指し示す記号としてこれは言語本来のありかたで、しかしこうした語彙の氾濫は認知や描写の粗雑化を招いているような心許なさを、わりと強めにぼくはかんじている。

 はじめにいっておくと、「エモい」ということばの厳密な意味やら由来について、ぼくの興味は皆無だ。なにに興味があるかというと、後述するが「エモい」ということばの使われかたであり、このことばをとりまく構造だったりするものだ。だからぼくはある種の記号として、以下で「エモい」ということばを使うことにする。この点についてご容赦いただきたい。
 いちおう簡単に調べてみると、「エモい」ということばは、
『感情が動かされた状態/感情が高まって強く訴えかけれる心の動き』
 を指すようで、「emotional」を語源に持つという。あるいはロックの形態「emo」に由来するとかなんとかあるらしい。よう知らんけど。

この様は、感極まって適当なことばで言い表すことが不可能になった状況下で使用され、友人がいうに、「あわれ」ということばにちかいらしい。
 もちろんぼくはそういう状態や感情じたいに否定的な立場を取る気はない。しかし、「ことばで言い表せない」という意味こそが悪い意味で「便利すぎる」ものであり、「ことばで言い表せない」とひとこと言いさえすれば、だいたいのことはだいたいのひとに伝わってしまうのが問題だとおもう。
 これは「伝わることが悪い」という意味じゃない。
 芽生えた感情を「言い表せない」と粗雑化することでその場をしのいでいるに過ぎず、「エモい」をはじめとするこうした便利言語の話者がそのことに無自覚であるきらいがあるということに、ぼくの問題意識がある。

 株式会社シネボーイによる出版レーベル「PAPER PAPER」から発行されたエッセイ集『でも、ふりかえれば甘ったるく(以下、でもふり)』を読んだ。
 この本のタイトルはあからさまに「エモい」を想起させるが、読み終えてみるとこの「エモい」ということばについて自覚的なコンセプトをもった本だったとかんじた。

ネットの文章は「読者」によって書かれている

『でもふり』の著者たちはネットメディアを主戦場とするひとが多く、またこの本じたいがブログのようなレイアウトが採用されているため、ここでネットに溢れる文章についてちょっと所感を述べて見たいとおもう。

 ネットの文章は「粗い」。

 ネットの文章といってもかなりいろいろあるので一纏めにするのは暴挙だとおもうけれど、オウンドメディアや個人ブログなどのWEBコラムを読んでみて、ぼくがまず感じたのはこれだった。
 もともとネット上の文章を読むタイプじゃなかったので、これらを読みはじめたのはWEBライターの仕事をはじめてからになる。どのレベルの水準の文章力が求められているのかを知るために、ざっといろんなものを読んでみたという流れだ。
読んでみて、
「こういったものよりもうちょいしっかり密度を濃くすれば、買い手はいくらでもいるだろう」
 とおもって仕事をはじめたわけだけれど、それはとんだ見当違いだった。厚くした描写は基本的にバッサリとカットされ、つっこんだ内容を書いても、
「批評的な要素が入ると読者が離れるのでやめてください」
 といわれ、「前者後者」といういいまわしすら、
「読者が一瞬考えないといけないからやめて欲しい」
 といわれた。こうしたことを繰り返すなかで気づいたことは、
「WEBメディアの文章を書いているのはライターでなく読者だ」
 ということだった。

ことばの「氾濫」と「速さ」

 そもそも、ぼくにはこんな違和感があった。
 それはぼくが十代後半のころにはすでに「活字離れ」みたいなことがいわれていた気がするのだけれど、世のひとたちが1日に読む文章の量はほんとうに減ったのかという疑問だ。むしろ逆じゃないか?
 大学生になり、どこの家にもネット環境があって、ブログやSNSが流行し、WEBメディアが大量に立ち上がって、スマートフォンをみんな四六時中撫でているいまの時代、いいかえればぼくらは一日中ことばに晒され続け、無意識レベルですら読み続けているんじゃないか。
 かつては本を開かない限りことばが溢れている環境なんてありえなかったはずで、ことばがより大量に手元にある時代になった。しかし、その質に注目してみると、ぼくの知っている「本」とはほど遠いものだった。

 WEB記事の特徴は「速さ」だとおもう。

 公開までの物理的コストがほぼない(印刷しなくていい)こともあって、WEBライターをやっていると入稿から公開までのはやさにはよく驚く。そしてこのスピード感は「執筆→公開」という作り手の環境だけでなく、読む側のほうにもある。多くの文章が無料で、そして指先のわずかな動きだけで取得可能で、読む場所も選ばない。入手にコストがかからないせいか、記事の大半は流し読みされる。これはGoogle Analyticsで滞在時間を調べてみれば一目瞭然だ。
 そして本と大きくちがうのは「だれが書いたか」がそこまで重要視されないということで、読者は良くも悪くも「目の前の文章がわかるかわからないか」だけで価値を判断する。そしてネットのスピード感がことばを読む環境をあらたにつくりあげ、そのなかでできることといえば情報のピックアップだ。素早く、実用的な情報を多く仕入れることが正しさになり、その周辺の余白が打ち捨てられた。
 こうした「速さ」とそれがつくる「環境」は、もちろん合理性においてさまざまな恩恵をもたらしたけれども、「理解しえないもの」の評価を引き下げたという側面は強くあるとおもう。

「わかりえない」という正義

 その「理解しえなさ」、とくに感情においてのインスタントな共有として、「エモい」をはじめとする流行語は、よくよく考えてみるとネットと相性がよかったのかもしれない。
「わからない」ことを減らす方法はふたつあって、「わからない」の根元に向かって能動的にアプローチするか、もうひとつは「わからない」ことを「わかる」と共感するかのどちらかで、専門書などの本は前者を、そしてWEBの文章は主に後者による解決を試みているようにおもう。

 あとSNSで短文を匿名のひとたちがぽいぽい気軽に発信できるようになると、「わからないって言ってもいい!」 みたいな雰囲気ができた。ぼく自身ちいさいころ、大人はなんでも知っている、大人は失敗なんてしない、とおもっていたタイプだったので、こうした流れは大きな安心をうんだ。しかし、大学院で専門の研究をするようになると、
「頭の良いひとは難解なことでも、中学生にわかることばで説明するものだ」
 という大多数のひとたちの主張が邪魔だとおもうようになった。そこらへんの自己啓発コラムとかを開いてみればわかることだけれど、共感を生む理解はそもそも「わかる」ことしか扱っていない。
「だれでもわかる内容を、オリジナルな気づきに見せかけている」
 というケースが多いんじゃないか、という疑念がぼくのなかで年々大きくなっている。つまり、問題から複雑さを削ぎ落とし、理解可能な領域のみを抽出したにすぎない。

「エモい」をはじめとすることばの仕組みもこれに同じなんじゃないか、とぼくはおもう。

「ことばにし得ない」という表現の不可能性や他者共有の困難さに対象をすり替え、それを「エモい」とパッケージ化することでどうとでも捉えられるようにしている。
たとえば個人ブログやWEBコラムでよくある手法は、日常のワンシーンを3つほど列挙する手法だ。「白い砂浜、青い海」みたいに、定型化された情景を張り合わせただけで、個人的な体験の詳細を描写することなく「だれもが知っている情景」を提示する。「表現の不可能性」が無批判に肯定されることによって、なんでもかんでも「エモい」とさえいえばまかり通っているんじゃないだろうか。

 もしそうだとすれば、小説や詩といった文芸作品が広く読まれるはずがない。

『でもふり』で自己言及的に扱われた感情の定型

 こうした背景があるなか、『でも、ふりかえれば甘ったるく』という過度な感傷をおもわずにはいられないタイトル、あからさまにWEBメディア的なレイアウト(横書き、広い行間)をとった本を読んでみると、かなり強めの批評性をかんじる。
 内容のほぼすべては日常の断片とそのなかに潜む思考と感情といった内省的な情景に終始していて、書き方を誤ればわりと「読めたものじゃなくなる」。しかし、そのなかでこうした枠組みを「伝える」ということばの機能でなく、「表現」という側面から巧みにアプローチした書き手がいた。伊藤紺というひとだった。

 伊藤紺の散文『ファミレスのボタン長押しするように甘く』は、一般的なエッセイや現代短歌、会社での会話劇など、バラエティに富んだ構成をしていて、ページをめくるたびに別世界がそこにありながら、しかし一貫性を失ってはいない。そしてなによりも短歌を差し込むことで効果的な余白を生み出すなど、読者が文字を読む速度を遅くする仕組みがていねいに設計されている形跡がある。
 この読書を強制的に遅延させる仕組みによってことばの表現性が強調されて、「エモい」とひとことにいってしまって「わかる」と錯覚させてしまいそうな感覚に対し、より解像度の高い領域での理解を促している。 

 もうひとつ気になったのが、生湯葉シホ『永遠には続かない』だ。
 この散文の冒頭では春の象徴であり、定型化された情景でもある「桜」に対する嫌悪感から書き始められていて、ひとやひとでないものとの「一過性の出会い」を描きながら、その対抗としての「文章を書く」について言及している。多くのひとにとって了解可能な感情を主題のなかにすえながら、同時に単純な共感を拒んでもいる。「わからないことをわかってくれるひと」の数がすくないからこそ、そこにとくべつがあるのだと叫んでいるようだった。時間とともに消えゆく瞬間瞬間の感情は、未来のわたしにすら共感されない可能性をしっかりと見つめていた。このひとは「意味」に対して誠実だとかんじた。

 べつに『でもふり』は「エモい」をコンセプトにしているとか公言されているわけじゃないけれど、「エモい」をはじめとする感情の定型化について、これまでちゃんと議論されてこなかったとおもう。
 その「甘ったるい」という心地を自覚し、それを文章表現として結実させることについては書き手それぞれの試行錯誤が露骨に現れるだろうし、「なんとなくイイ」みたいな感覚から脱した文章がWEBライターによってひとつでも多く発表されたら、確実に「文章の読まれかた」は今後数年で大きく変わるはずだと、ぼくはおもう。 

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