蒼生2019レビュー②:文学とハラスメント


この記事よりも先に、こちらをまず読んでほしい。

「文学とハラスメント」は、昨年ハラスメント事件が発覚した渡部直己の元ゼミ生・卒研生によって企画された特集である。すでにTwitterなどで大きな話題になっているのだが、それはこの特集が「学生による教員の告発」になっているからである。
 学生らは「この雑誌を作り上げていく過程で担当教員からハラスメントを受けた」とし、

 私たちにとって文学とは絶対に問題を風化させないという強い意志、事件前から変わらない書き手への信頼と書物への愛、つまり私たち固有の経験を語ることです。この『蒼生』が長く論系室に残り、この特集が読まれることを願いつつ、私たちは、私たちが受けたハラスメントに、私たちの文学をもって抵抗することをここに宣言します。

 という宣言文を企画冒頭に掲載している。
 このような「強い言葉」が前提とされている以上、この企画にある文章を生半可な態度で読むことはできない。読み手が抱く「文学」を総動員することが要求されており、それゆえにぼくもこの企画を「文学」として読んだ。

 その彼らの告発を代弁したとされる原稿が笙野頼子『これ?二〇一九年蒼生の解説です』だ。この原稿は、笙野頼子が『蒼生』編集部から寄稿依頼を受けた際、学生から機関誌『蒼生』の担当教員I氏とK氏(本稿では実名)による妨害を知り、それを自身が過去にI氏から受けた言論統制などの経験と重ねながら告発するというメタ構造を有する文章である。この文章の特徴は以下である。

▪︎本誌『蒼生』の制作過程を扱ったメタ構造を有している
▪︎実在の人物・文芸誌が実名で大量に登場する
▪︎書かれていることが真実であれば、重大な告発となる
▪︎書かれていることに事実誤認があれば、深刻な名誉毀損となる

 この性質から見るに、この文章の最大の論点は書かれたことが事実であるか否かであるが、noteで公開された告発されたI氏とK氏とされる人物による説明によれば、掲載にあたって文芸・ジャーナリズム論系は「まず原稿は一篇の作品であり、修正はできないことを確認した」として掲載に踏み切ったという。
 これが事実だとすると事実確認の一切が行われていないことになる。しかし、『蒼生』の制作や文芸・ジャーナリズム論系に縁もゆかりもない人間が、何が事実で何が誤認なのかを判断するのは不可能だ。

 ゆえに内容の是非についてを書くことはできない。
 しかし、『これ?二〇一九年蒼生の解説です』という文章が「文芸表現として正当か」という点について、つまりその文学性について論じることは可能であると思われる。ここで注意してもらいたいことは、それはあくまでも「表現としての正当さ」の議論であり、告発した側/告発された側のどちらを支持するなどといった話にはならない。ましてや、告発した学生の「傷ついた」という「固有の経験」とも無関係である。

 この文章の表現としての意図は、特に表題に掲げられた「解説」ということばが示す通り、『蒼生 2019』という雑誌の性質を操作すること(あるいは雑誌の性質を明確に決定づけること)にあると読める。実際に、本文にはこのような文章がある。

 結論、みなさんこの「蒼生」の本当の特集とは何だったのでしょう、褒めてやってください!!!それは彼らの、統制の陰で行われた戦いである。

 この表現の射程は、笙野氏の文章を超え、媒体全体、他の企画や公募作品、全員参加で編集された「あなたとして生きる」の内容にまで及ぶ。
 つまり、「真に意味を持つのは『文学とハラスメント』という企画のみであり、他の企画は雑誌の体裁を取り繕うために流し込まれた無意味なテクストである」という風に、他の企画の文章の意味を書き換える機能を持っている。担当教員の固有名を使用することでテクストの空間を限りなく現実に接近させようとする手つきを土台とし、「蒼生の解説」と銘打った表題によりメタ性を強調し、「結論」として先に挙げた引用によって雑誌と企画の位置関係を反転させるという意匠が施されている。
『これ?二〇一九年蒼生の解説です』はその自己完結しないメタ性ゆえに、このテクスト単独での評価はできない。『蒼生』に掲載されたすべての文章を読んではじめて完結し、その評価は『蒼生』という雑誌全体の評価とすり替えられる。より厳密には、「結果的に」そのような性質のテクストになっていると言えるだろう。陰謀論小説として読むにしても、事実とも虚構とも見分けがつかない領域で常に話が展開されているため、出版モラルとして「明確にフィクションだと判断できる要素」がなくてはならない。
(余談になるが、Twitterでやたらこのテクスト単独の「事件性」を取り上げるライターが見られるが、いったいどれだけの人間が『蒼生』の全企画を読んだというのだろうか。すべてを読んだうえで、『蒼生』では「文学とハラスメント」のみが真に意味を持ち、あとはかたちだけの無意味なものだとでも読んでいるのだろうか?)

 ぼくがこの書評で焦点を当てたいのは、

▪︎雑誌中の1つの原稿の表現が、他の原稿の意味を無意味なものとして「書き換える」ことの正当性

 である。
 結論を言えば、その「書き換え」の正当性を認める方法はそんなに難しくない。『蒼生』の制作に関与した学生全員(履修生全員)が認めればいいだけの話だからだ。
 雑誌そのものがそのような意図でそもそも作られていたとしたら、つまり無意味として「書き換えられる」ことを前提に構成されていたのだとしたら、それは事実確認を一旦脇に置いて表現として「正当」だといえるだろう。
 ここでぼくがいうところの「表現としての正当性」とは、「他者の表現を不当に抑圧していないこと」である。
 そもそものハラスメント告発は担当教員によるみずからたちへの「表現の抑圧」への対抗だったはずだ。にも関わらず、みずからたちが告発のためにとった手法が他者の表現を抑圧しているのであれば、それは致命的な自己矛盾となる。「自分は正しい、その正しさはいかなる他者の表現も優先されるべきだ」という独裁的思想こそ、かれらが告発しているハラスメントの温床なのではなかろうか? 媒体の私的占有してしまう可能性について、少しでも思い巡らせれば回避できたことであり、「告発」の方法は他にもあったはずだ。
 いわば笙野氏の原稿を受け取った瞬間から、『蒼生』を編集するひとびとはその原稿に試されているとぼくは読んだ。笙野氏の原稿『これ?二〇一九年蒼生の解説です』を本当に掲載する度胸はあるのか、その掲載にあたり飛び越えなくてはならないハードルはなにか、この原稿が掲載されるということはどういうことなのか……などの多数の問題が浮上するわけだが、『蒼生』の制作が授業の一環である以上、その監督責任を教員が負うのは必然である。もちろん、告発されたI氏とK氏が担当するわけにはいかないのは明白で、この2人の後任がいただろうことは想像に難くない。
 ともあれ、笙野頼子『これ?二〇一九年蒼生の解説です』は現状ではよくわからない読み物だ。これを「正当な文芸作品」として最低限読むために、読者には以下の事実確認が必要だと考える。

▪︎「文学とハラスメント」の企画者とかれらの指導を行った教員は笙野氏の原稿を受け取ったのち、原稿の性質と掲載により生じる他の原稿への影響を検討し、全履修生にじゅうぶんな説明を行ったのか
▪︎全履修生は笙野氏の原稿を読み、その特性や自身が担当するそれぞれの原稿への影響を理解したうえで、この原稿の掲載やタイトルの是非を全員で議論したのか
▪︎その議論において、全履修生が誰1人否定することなく賛成したのか
▪︎すなわち全員が告発を希望したのか

 事実、これが掲載されているということは当然すべてクリアされているものと考えられる。そうすると「文学とハラスメント」の企画者の行動力と意思の強さは凄まじく英雄的なものであるが(もちろん重大な事実誤認がひとつもなければという条件もつく)、どうもそうではなかったらしい気配が見られるため、ぼく自身としては、正直なところ笙野氏のテクストの正当性を確信するのは難しい。上記の確認がクリアされていないまま掲載が強行されたとしたら、最終的に担当した教員は一体何をしていたのか気になるところである。それこそ詳細な説明の責任が生じるだろう。
 以上をまとめるとこうだ。もし、「蒼生」の制作に携わった履修生が1人でも異議を唱えていたら、それを無視して掲載が強行されたのだとしたら、ぼくはこの原稿そのものが「他者の表現の不当な抑圧」と解釈する。これはあくまでも掲載されたテクストの技術的な点についての考察の結果である。個人の感情は可能な限り排除しているつもりだ。
 これについての「文学とハラスメント」に関与していない履修生の証言がひとつでも多く欲しい(とうぜん別にぼくにいう必要などない)。それがいま起きている騒動を鎮静化するだろう。心当たりのある履修生がいたら、ほんのすこしの勇気を持って大学側に相談して欲しいとおもう。

 以下はもう少し主観を入れた書評になる。 

 トミヤマユキコ『大学生とハラスメントに関する(やや長めの)雑感』はハラスメントという認識についてや、ハラスメントから自身を守るための具体的な方法などが提示されているが、この原稿にはどうしても看過できないものがあった。「学生が教員を告発することの恐怖」を払拭するため(=教員という立場の脆さを伝えるため)に語られたエピソードだが、以下に引用する。

 お前はハラスメントの加害者、というカードを切られたら、教員は確実に弱るが、そう言われたところで、教員を告発する勇気なんて出ないよ、というのが正直なところだと思う。けれど、せめて、あなたの心の中だけでもいいから、「教員の方がよっぽど崖っぷち」というイメージを持って欲しい。
 ちなみに、わたしは高校の文化祭で「らっしゃっせ!」とか言って食堂の呼び込みをしていたら、某教員に「この痴れ者が!」とどやしつけられたことがある。その教員は以前から「上品さ」というものをはき違えているところがあったので、呼び込み=他人を誘惑する破廉恥行為、とでも思ったのだろう。ものすごい剣幕で怒られて、めちゃくちゃ怖かった……のだが、その経緯がいまとなってはおもしろく感じられて(歳を取って図太くなったのかも)、高校の同窓会に講演者として呼ばれた際、そのネタで話すことにした。卒業から何年も経って、カードを切ってみようとしたのだ。
「いや〜みなさん、かつて「痴れ者」と呼ばれた女が、講演者として呼ばれるなんて、人生ってわからないものですよね〜」と言ったら、その教員(いまは出世して校長)の顔がみるみる青くなり、講演が終わるや否やすっ飛んできて「そんなことは言っていない」「あなたの記憶違いだ」とものすごい勢いでまくし立てられた。公衆の面前でひとをdisるクセが全く直っていない。いいものを見た。やはりこのカードは強い。

 ぼくにとって、ユーモラスに語られているこのエピソードが全く笑えない理由はここに「過去に自分を少しでも傷つけたことがある人間は無条件で傷つけてもいい」という思想が読み取れるからだ。しかもこのエピソードは「過去にハラスメントを受けた奴と仕事で会うことになり、おもしろそうだから試しに人前に吊るし上げてやったら慌てふためいた。告発はなかなか使える」という解釈さえ可能である。告発を「カード」とみなし、このような快楽的な態度で行ってしまえることについて、ぼくの主観ではあるが「良識を疑う」。そういう発想で告発材料のストックを保持することが現代日本の処世術だとするのを、ぼくは認めたくはないし事実だとも思わない。トミヤマ氏は早稲田大学の助教とのことであるが、学生を指導する立場の人間が「おもしろそうだから」という理由を少なくとも引き金として「告発」できてしまうことに、それに対する思慮やためらいのなさに、非常に大きな不安と恐怖をおぼえている。

 こうした自分本位の発想は、先の笙野氏のテクストを掲載することで生じる影響への鈍感さにも通づるし、同特集内の『ハラスメント紋切型辞典』にも感じられる。この記事はそのタイトルの文字通りにハラスメント時に使用される語彙の解説と例文が列挙されたものであり、笙野氏の文章内で言及された「教員から受けたハラスメント」をネタにした毒々しいユーモアも交えてまとめられている。
 ぼく自身、「過去に自分を少しでも傷つけたことがある人間は無条件で傷つけてもいい」という考えには賛同しかねるため、読むにたえないものだったというのが本音である。冒頭の宣言された「私たちの文学」とは、関係のないひとを巻き込んだり、無関係の他者の表現を抑圧し、憎しみの感情を正義として他者を傷つけてもよいのだということだろうか?という疑問を持ってこの特集を読み終えた。無論、ぼく自身が信じる「文学」や「正義」についてもかえりみなければならないことは多々あるのは言うまでもない。こうしてなにかを述べることが誰かの尊厳を蹂躙している可能性も否定できないわけだが、ひとまずいまのぼくはこの書評を然るべき方に読んでもらいたいと強くおもう。

 以上が「文学とハラスメント」についての書評である。

 ぼくはこの件に関して、当事者やなんらかのかたちで影響を受けた方々すべてが望むかたちでいち早く解決されていることを、心から願っています。

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