描写と叙述

【第3回】「説明ではなく描写をしなさい」は本当か?

 読者さんとの交流、というとスーパー上から目線になってしまうのだけど、テクストを通したコミュニケーションをより積極的にやっていきたいと考え、『質問箱』をはじめてみた。

 しかし今回がはじめてではない。
 実は前のアカウントでも1度やってみたことがあるのだけれど、ぼくの人格を攻撃するものや自著(コロニアルタイム)をボロクソにいうひとが何人かいて、わずか2日で心が折れてしまった。
批評などやっている身なので自著について否定的な意見があることは自然なことで、ぼくにその旨を伝えることじたいは問題ない。そういうものと真摯に向き合いたい気持ちも強いのだけど、そのとき言われたのが
「あんたの電子書籍を買うために600円、私の食事2回分を無駄にした。もう小説を書くな」
という内容だった。それについてはぼくの力不足を申し訳なくおもう。しかしぜんぜんフェアじゃない。話が逸れた。

『質問箱』は開設と同時に多数の小説に関する真摯な質問が寄せられた。これは素直にうれしいことで、ついついすぐに返事をしたくなってしまったわけで、結果、みなさんのTLをちょっと荒らしてしまうことになった。そうしたことへの配慮が足らなかったと一晩経って反省し、今後はマイペースに少しずつ回答していきたいとおもうので、どうか気長に待っていただければ……とおもう。

 質問に関して気になったのが、
「大滝さんは描写が嫌いだとおもうのですが……」
 という前書きだ。
たしかにぼくは事あるごとに「描写」に関する否定的なコメントをしてきたし、阿波しらさぎ文学賞のトークイベントでも「描写が嫌い」という旨をはっきりと述べた。
 このコメントをめぐっての議論はネット上で表立ってなされてはいなかったけれど、小説観の異なる友人との話題にはたびたび持ち上がり、あーでもないこーでもないと話しながら、互いのことばを重ねるごとに両者の合流点に達しようとはしている。

 というわけで、今回議論したい定型句として、

「説明ではなく描写をしなさい」

 を取り上げることにした。
 結論から言えば、ぼくは「描写そのもの」を否定したいわけじゃない。そこでぼくの文章に対する価値観を明らかにしながら、小説における「描写」と「説明」の表現機能について考察してみたい。

なぜ「描写が嫌い」なのか?

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