皮を剝ぐにはうってつけの日


 女の子たちは気づいていた。だって、そこの茂みがガサガサ揺れているんだもの。その一文を訳したところでワタシは手をとめた。“bushes jiggling” 直前のシーンでは彼女たちよりも歳下の——しかし一〇年も経てば誤差としか程度しかない歳の差だ——男の子たちが水着姿の彼女らを覗き見している描写がされている。かれらはいうまでもなく思春期だ。生暖かく、しめっぽいその視線は彼女らにとって決して好ましいものとはいえないだろう。このjigglingという単語は、草木の様体——ガサガサ揺れている——を示すだけではなく、マスターベーションをしている様をあらわす俗語としてもしばしば用いられる。女の子が男の子のマスターベーションを想起するとはどういう意味を持つのだろうか。ひとりの女の子が上体を弓なりにそらす。彼女は思春期を終えようとしている。そして次のステージへと向かうさなかにあるだろう。少年たちの視線に対し、不快感をくぐり抜けた優越感を投げ返す。無防備に肌を投げ出した女の子は冒頭でこう表現されていた。皮を剥がれたアザラシの一群。
 たったひとつの単語、なにげない描写のなかに不可視の世界がある。ワタシはそう考える。このjigglingにしろ、かれの解釈を反映して和訳するには過剰な補足描写を挿入しなければならないだろう。しかし、それは翻訳としてあるべき姿なのかわからない。原文には直接ない表現をつけ加えることは、翻訳者独自の解釈を読者に押し付けることにもなりかねないし、独自解釈が原作の本質を射抜いているとも判断しかねる。それに、描写を訳者が追加することで原作にあった余白を奪ってしまう可能性だってある。そういった問題は翻訳のみならず読書そのものについてまわる問題にもおもわれたが、じっさいにじぶんの手で文章に起こしていく作業には肉感的な手触りがついてまわる。アザラシの皮を剥ぐべきなのだろうか。
 ワタシはノートパソコンを閉じ、ベランダに出てたばこを吸う。午後二時。一歳になったばかりの息子を保育園に迎えにいくまでにあと二時間半ある。大きく息と煙を吐いてその日のスケジュールをぼんやりした頭のなかで確認する。息子を迎えにいって、一時間ほどは絵本の読み聞かせをし、それから積み木遊びに付き合ってやり、六時前に夕飯の準備をはじめる。今日のメニューは賞味期限が明日のタラを使い、幼児用に味付けを薄くしたものも別途作る。料理は必要にせまられ多少できるくらいだから手間をかけたものは作れないし、そもそも料理に必要以上に時間はかけたくない。あとは味噌汁とほうれん草のおひたしをつくれば一汁二菜になる。妻のキミが帰ってくるのは(定時退社ならば)七時ぐらいで、タラを焼くのは最寄駅についたとLINEがきてからだ。それまでに息子の夕食を済ませ、風呂掃除をする。妻が帰ってきたら交互に夕食をとり、食べ終わったら息子を風呂にいれる。九時には寝てほしいところだが、最近息子は寝つきがわるい。一〇時になってもまだ寝室の暗闇のなかで積み木をいじっていることもある。息子が寝たら書評用に読まなければならない本を読む。おそらく日付が変わるころにキミは晩酌に誘ってくる。酔い過ぎない程度に飲み、キミが寝る深夜一時ごろからあと一時間くらいは本を読みたい。それでも五時間は眠れる。
 ワタシは書斎に戻る。2LDKの賃貸マンションの六畳一間の洋室はかれの仕事部屋として妻との合意のうえあてがわれているものの、子どもが生まれてからは半分物置も兼ねている。クローゼットと窓以外の壁はすべて背の高い本棚が置かれていて、実家に送る予定の、サイズアウトした衣類やバウンサーなどの育児用具、妻が読み終えた漫画の山が雑然と床を占領している。ワタシはノートパソコンを開く。行き詰まった翻訳を進めるには使える時間が中途半端だ。しかし息子を迎えにいくまでの時間でブログの記事を一本書ける。キーボードを叩くたびにラックのうえのプリンターが小刻みに揺れる。

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