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地べたのナラティブ

 福祉界への転職を考えていた頃。踏ん切りがつかず悩んでいたら、ツレアイに言われた。
 「福祉って簡単じゃないでしょ。差別しない自信、あるの?」
    ーーない…っス…

構造主義的アプローチ

 そこで必死で考えた。
 差別とは、既存の社会通念を自覚のないまま呑み込んで相手を見下し、しかもそれがまっとうだと思い込む態度や行為あたりだろうか。
    自覚のないままやってしまうことを防ぐのは、とても難しい。

 ――うーむ。どう防ぐか…
 ある日、構造主義の考え方を応用することを思いついた。
 ある人々を無自覚に「見下す」ということは、少なくとも、別の人々を無自覚に「見上げる」こととセットであるはずだ。見上げないのに、見下すことだけが生じるというのは考えにくい。差別は上-下の関係構造のなかにあるはずだ。
    ならば。

 ――「見上げない」よう意識することなら、できるかもしれない…
 それ以来、社会的地位が上とされる人々を、ただそれだけの理由で「見上げる」ことはしないように心がけている。周囲には実に不遜に映るだろうが、それで差別が防げるなら安いものだ。

 だが当初から、この作戦には大きな弱点があるのがわかっていた。構造は目には見えない。実際にうまくいっているかどうかが、自分ではわからないのである。
 でもまあ、何もしないよりは絶対マシだ。
    構造主義を信じるしかなーいっ!

 転職後、この弱点は思わぬところで露呈した。
 現場で使われている専門用語、である。

「ケース」って誰のこと?

 入職後3年ほどが経った頃だったか。
 ボスと話していて、何気なく放った私の言葉。
 「ケースにはそう説明すればいいんじゃないですか?
 その瞬間、普段は温和なボスの表情がキッと険しくなった。
 「…『ケース』って誰のこと?
 眼鏡の奥の目の光。
    総身に冷水を浴びた心地がした。

 私は利用者たちを「ケース」の名のもとにカテゴライズし、実体として捉え、自分とは異なる人々の集団として扱っていたことに初めて気づいたのだった。自覚なく見下していたのだ。

 それ以降、私は「ケース」という言葉を「事例」という意味でのみ使うよう心がけている。「誰それさんのケースではこうだったね」という具合に。

 だが。
 私は、どこでこの用法を覚えたのだろう。
 なぜ、それを自分のものにしてしまったのだろう。

 福祉界では、利用者をカテゴリーとして一括りにする視点は目新しいものではない。戦前戦中の方面委員の時代にも「カード階級」「カード戸口」「カード者」といった表現が用いられていたようで、それに基づいた統計調査も行われていた。
 現在では統計項目に「ケース」が用いられることはないが、支援の手順や手法では「ケース診断会議」「ケース検討会」という表現が用いられている。これらは「ケース」を「診断」や「検討」の対象と位置づける表現でもあるので、「ケース」を日本語の「事例」とは別のカタカナ語として認識すれば、やがてそれを実体的なカテゴリーとして捉えるようになっても不思議ではない。

 さらに現場人の間では、実体的なカテゴリーとして「ケース」という言葉を用いることが、一種の専門性の発露として通用しているフシもある。「ケースに怒られちゃったよ」というように。
    「ケース」についての語りは、互いを業界人として認めあうためのジャーゴンとして機能しているのだ。

 「ケースにはそう説明すればいいんじゃないですか?」という私の発話は、他の現場人と語った経験を踏まえてのことだろう。違和感なく会話が成立するなかで、私は「ケース」という差別的な認識を内面化していったのだ。
 そして私は、他の現場人に対してやったのと同じように、暗黙裡にボスと自分をおなじ「専門家の世界」に属する相手と規定し、「我々専門家」と「ケース」とを別の人間集団として線引きし、さらにそれを自明視する価値観を押し付けていたのだ。
 それに対してボスは「その価値観は共有しません!」とばかりに、ピシャリと締め出しを食らわせたのだった。
 ボスには今も深く感謝している。

「特性持ち」

 似たような例はほかにもある。
 発達障害者支援法の2016年改正、障害者総合支援法の2021年改正を受けてのことだろうか、全国規模で、障害をめぐる言説のなかで「特性」という言葉が普及しつつあるようだ。
    門外漢なので詳細はわからないが、発達障害者支援法では「個々の発達障害の特性その他発達障害に関する理解を深める」ことが国民の責務とされた(第四条)。障害者総合支援法では就労支援の強化が謳われ、福祉界の人々に留まらず企業などでも「障害特性の理解」が推進されているようだ。

 「障害特性」の定義をネットで探してみたが、見つけきれていない。要は「障害」や「症状」といったカテゴリーを束ねる指標ではなく、環境の影響のもと個々人レベルで発現する、障害由来の困難のパターンを指すのだろう。

 だがこの言葉は、少なくとも私の周囲では、異なる使い方もされている。例えば、こんなふうに。

 「あの方、特性ありますからね」
 「新規の方、特性持ちなんですけど」
 
 理解すべき対象を指す「障害特性」という抽象概念が、「ある」「持ち」という動(名)詞とセットで用いられることで、属性のように扱われる。しかも「障害」を外すことで業界外部の人々にはわかりづらいジャーゴンとなり、「ケース」と同様、互いの専門性を承認しあう機能を果たしていると思われる。

 こうした表現には、実は現場なりの有用性もある。「特性持ち」は、診断が出る前、場合によっては医療につながる前の段階で「発達障害の疑いがある」ことを意味することが多い。そして私の周囲の現場人は、診断前の方に出会うことが比較的多いのだが、そうした人々を指す専門用語は用意されていない。そこで「発達障害の疑いのある方」を表現するのに「特性」を転用しているのだ。

 反面、非公式表現である「特性持ち」は、差別に通じる認識を含んでもいる。個人レベルで発現する「特性」を所有格で語ることで、それは集団レベルの物事を指す言葉に変化し、その属性を帯びる人々を集団としてカテゴライズする道を開いてしまう。
    そして「持ち」とは言うものの、当事者は実際には自分の意思でそれを「手放す」ことはできない。このズレには差別的な認識が含まれる。「特性」を「障害」に置き換えればわかりやすいだろうか。非常に危険な表現なのである。

専門用語の使われ方

 このように現場レベルでは、専門用語は複雑な状況下でさまざまな使われ方をしている。

    まず、現場人の間でジャーゴン化された専門用語は、お互いの専門性を承認しあい、水平的な仲間意識を醸成するのに一役買っている。

    また事例は割愛するが、これとは逆に専門用語を用いることで、現場人の間に上下関係が創り出されることもしばしば観測される。俗に「マウンティング」と呼ばれるもので、最新の流行の専門用語を用いることで相手より優位に立とうとする言動がそれだ。ちなみに私の「マウンティング」の判定基準は、その用語の使用が抽象概念に留まったままであり、相手に有益な助言をすることよりも、自分がその用語を人前で使ってみせることに重きが置かれていることにある。
    これらはいずれも、専門用語が現場人のあいだの人間関係に即興的で微細な影響を創り出すための資源になっていることを示唆する。

 この「マウンティング」の背景には「専門家は学び続け、最新の情報に追いつくべきである」という価値観がある。最新の専門的知識に誰も価値を見出さなければ、「マウンティング」はそもそも成立しないからだ。
 政府やアカデミアによる新たな専門用語の発信は、「専門家は学び続け、最新の情報に追いつくべきである」という価値観を背景になされている。だから顧客に欠くことがない。現場人にとってそれは、専門家としての知見を深めてくれるだけでなく、人間関係を操作する資源としても転用できる。

 その一方、現場人は専門用語を政府やアカデミアの意図とは異なるかたちで転用し、本来の意味からずらし、現場レベルで使い勝手のいい独自の言葉として用いることもある。平等の実現/差別の否定という業界の根本的な価値観を切り崩してしまったりする危険性もある。

 では、どうするか。
 専門用語を本来の意味からずらさないよう「言葉狩り」をすればよいのか?
 ……話はそう単純でもないようだ。

「ニティ・グリティ」

 ネットで見つけた論文に、興味深い事例が載っていた。著者はホワイトさん。1990年代前半の英国の児童福祉現場でのエピソードである[White1997: 184-5]。

 英国でも日本と同様に、ソーシャルワーカー[以下、SWerと略記]は官僚的ヒエラルキーのなかに位置づけられている。そのなかではSWerは「児童サービス計画」の下に置かれるが、その計画に「『反抑圧的な実践』に関する規定」が盛り込まれた。エピソードはそこに端を発する。

 規定では、
「さらなる抑圧が起こらないように」
「反抑圧的な実践を特定し、促進し、評価し、さらに発展させる」
「すべての抑圧的な実践を特定し、それに挑戦する」
と明言された。その焦点は
「性的指向、障害、階級、人種、ジェンダーから生じる違い」
とも明示された。
    パッと読むかぎり、イイコト尽くしである。

 だが、これを受けて実際には何が起きたか。
    それまではうまくいっていたSWerと警察の児童保護チームとの関係が崩壊したのだった。

 きっかけは、警察官が使った「ニティ・グリティ nitty gritty」という表現で、SWerが「それは人種差別的なので控えるべきだ」と主張したことだった。ちなみにニティ・グリティとは「核心」という意味らしい。

 SWerの一部は、「ニティ・グリティ」の語源は奴隷貿易にあり、白人所有者が黒人女性奴隷のシラミだらけの陰毛を指して使っていたと主張した。「getting down to the nitty gritty」(核心に触れつつある)という表現は、白人オーナーによる黒人奴隷のレイプを意味するというのである。

 この解釈の出所はわからないまま、SWerたちは「この言葉を使い続けると不快な思いをする人がいるかもよ」と同僚から優しく教えられたり、他所のSWerの失敗談を聞くなどして、「わかっている」「多数派」になっていった。

 他方、警察は納得せず、「ニティ・グリティは人種差別的表現ではない」というポスターを事務所に貼った。
 ついにはSWerが警察を「隠れレイシスト」と、警察官がSWerを「イカレ左翼」と見なすようになったという。

 ホワイトさんはいう。
 人種差別や性差別は問題ではないと堂々と言うSWerはまずいないだろう。だが、何が人種差別や性差別であるかはあいまいだ。なぜその表現が人種差別的なのかを問うと「誰かがそう言っていた」程度のこともある。そして根拠薄弱なまま、その表現は「安全のため」使用が控えられる。それはおかしいと言えば、差別主義者の烙印を押されかねない[前掲書: 186]。

    児童サービス計画の「反抑圧的な実践」のもとで人間関係に変動が生じるなか、SWerが冷静に、自らの判断で自らの態度を選択する余地が切り縮められる。そして官僚的ヒエラルキーの上方からもたらされる「抽象的な正しさ」には、現場の誰一人として、抗えない。

 「反抑圧的な実践」が抑圧的に働くのだ。
    「言葉狩り」では問題の本質に斬り込めないことが、よくわかる。

構築主義的アプローチ

 現場の私には時に「上から降ってくる」と感じられる専門用語たち。その感覚はおそらく私自身が、社会福祉界を秩序づけている官僚的ヒエラルキーの下のほうに配置されていることに由来するのだ。現場人たちは「上から降ってくる」言葉や概念をさまざまなかたちで利用しているものの、「上」が発信する支配的な言説には大っぴらには抗えない。

 例えばSWerはしばしば、自分自身が帯びる「権力」powerに自覚的であるよう促されるだが、自覚を促す側のpowerはどこに由来するのか。そのpowerは周囲の支援者と個々のSWerとの関係にどのような影響を与え、利用者との間にどのような微細なやり取りを発生させるのか。

 アカデミアでは、こうした問いは「構築主義的」とされる。

 東京女子大の上野加代子さんは、ソーシャルワークにおける構築主義的研究を概観する論文のなかで、英語圏での構築主義研究は、方法論的には百花繚乱だが「福祉は民主主義的な資本主義国家の補完装置であり、補完装置で発揮される権力こそ、権力の本質的なもので、自分たちは権力機構の本質的一部分だといったような見方」が通底していると指摘した[上野 2017: 81]。
 SWerが帯びる「権力」は、SWer個人というよりむしろ、権力機構の部分を構成していることに由来する、という見方である。

 そして上野さんは、日本では構築主義はナラティヴ・アプローチとしてのみ受容され、そうした強烈な批判精神は受容されていない」と、これまた強烈な批判精神を発揮し、論文をこうしめくくる[上野 2017: 81]。

英語圏での福祉の領域における構築主義的研究は、クライエントだけでなくソーシャルワーカーの被害者性を前面に出すことで、議論の刃を自らの実践の手足を縛る社会的な制度により明確に定めてきたといえる。

上野 2017: 82

 日本の社会福祉界で、「SWerの被害者性」を論じることはできるのだろうか。官僚的ヒエラルキーの下のほうから、自らに働き自らも行使するpowerについて、語ることはできるのだろうか。

 ヒントはある。
 実はバッリバリに構築主義的なホワイトさんの論文には、あるマネージャーのこんな言葉が出てくる。

正統派から外れることで、批判されると感じたり、専門的な知識の裏付けがないとバカにされるのではないかという不安…もうひとつは、一緒に仕事をしている人たちが何を考えているかということ…私は常に質問しているわけにもいかず、レッテルを貼られ、誰からも好かれなくなってしまう

White1997: 197 強調は引用者

    ……ああ、これだ。
    この不安の語り方には、地べたの匂いがする。

 日本のあちこちにもきっと、こういう不安があるはずだ。
    この不安から目を逸らさず行こう。
    新たな希望はきっと、こんな匂いのする不安から生まれるものだから。

 (おしまい)

■■文献■■
■Susan J. Baldwin White 1997 'Performing Social Work: An Ethnographic Study of Talk and Text in a Metropolitan Social Services Department', 未発表博士論文.
児童福祉SWerとマネージャーの言説にフォーカスした民族誌的研究。ルーティンと言語実践のなかで、ローカルな文脈の外からもたらされる材料(支配的言説など)を柔軟に用いながら、ワーカーたちが官僚的ヒエラルキーという権力構造のもと、いかに出来事や「ケース」をつむぎだしているかを示す。
著者は現在はSue Whiteという名前で、英国のシェフィールド大学の教授を務めておいでのようだ。

■上野加代子 2017「福祉の研究領域における構築主義の展開」『社会学評論』68(1): 70-86.

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr/68/1/68_70/_pdf