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希望の雫は万人に降り注ぐゆえに

今日ふと、自分の内に、#0 The Fool の背景に描かれている光の雫が降り注いでいるのだなと思いました。
先人の方々から、こぞって学びを注がれているように感じられたことがきっかけに思います。我ながらおめでたいことです。

昨日からY先生による「楽園喪失」の講義が始まりました!
御本を見つけ、届いて、読み始めたといえばその通りなのですが、とても眩しい光の中に、ひとつの大きな新しい始まりが訪れたように感じるのです。それが現実として講義が始まったような感覚を自分の中に引き起こしてくださっているのではと思います。私に特別な感覚がある訳ではありません。

「それぞれ人間としての能力の大小がありますから、われわれがことごとくミルトンになることはできません。けれどもミルトンを理解するのに一番大切なものは、ミルトンと共通なものをもつことです。理解するためにはミルトンと共通性がなければならない。それは神に対して真実なたましいである。それがあれば、私どもは詩を作らなくても詩人でありうるし、預言しなくても預言者でありうるし、また聖徒でありうるのです。」

矢内原忠雄『土曜学校講義』 第8巻より

ここを読んでいて、師が仰っていること、ベルジャーエフから教えられることとの必然的な繋がりを強く感じました。

そして太平洋戦争終戦の年である昭和20年5月に始まったこの講義を今この時代にいる私が受けていることに、説明のつかないほど重要な意味を提示されているように感じさせられています。

今は自分の罪深さを感謝したくなるのです。

こんなにまで罪深くなければ、このように絶対者を求めることはなかったんじゃないかと思うから。

私にとっては、罪の中にいる苦しみ、罪の者であることを自覚し続けることがとても苦しかったから、師が教えてくださったタロットの霊を通して、キリスト - を求めることができたし、今もなお、そうなのだと思います。

私にはどうしても、この「罪」が必要だったのではないか。
心優しい、慈悲深い心、あるいは立派な精神をもって生きてこられた人たちとは全く違う。たとえ他者には分からなくても、根深い罪に浸かって生まれ、まるで罪を育むように生きてきたことを、私自身は示すことができます。

そういう私を哀れに思われ、今の道へと連れ出されたとしか思えない。
この罪ゆえに絆をいただくことができたとしか思えないのです。

しかしながら罰当たりなことに、今や、この罪の苦しみからさえも引き離していただいている気がします。
私のものではない喜びが、ただただ私を抱き上げて下さっているようです。

その一方で不思議なことに、厳しく精錬された空気を今までになく求める心があります。
生やさしいものではない厳しさに触れたい。厳しさという愛に触れることを求めようとします。
これも私からでないのだと思います。私はそんなことを求めるような人間ではないからです。

学びにあるとき、私のものではない喜びとこの厳しさが混ざり合い、降り注いできます。
それは師の生きておられる、タロットの巨大な宇宙からくるのだと思います。

師との絆というものは、追いかけるのでも近づくのでもなく、深まり、広がることでした。
少なくとも、今の私にはそのように感じます。

師から開かれているタロットの宇宙が私を取り込み、広がる。その空間は、育つように広がっていく。終わりも、限界もない、どこまでもどこまでも、深くなり、広がっていく。
それはとてつもない希望です。「望み得ないのに、なおも望みつつ信じる」ことをもたらす希望です。

私の心の醜さをもって、タロットが私を捕らえてくださったこと。
それは私にしかない希望。
生まれもってある心の醜さ。罪深さ。それすら、つながるための賜物として与えられたように思います。これをよくよく仰いでみると、なんという超越的なことだろうと思います。

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