快適な生活とナマケモノと面倒ごと
私は怠け者だ。
洗濯、掃除、料理・・・さまざまなことがめんどくさい。
そんな私の思考の大半はどうやったら怠けられるか、私が感じる「面倒なこと」の解消に費やされる。
効率厨って言葉があるが、それともまた違う。
効率=最適ではなく、あえて、非効率に時間をかける美学も理解している(つもり)。
家事がめんどくさいなら文明の力に頼ろう
頼るのだってお金が必要
面倒を払うために、頑張って努力して稼ぐ
何が面倒なのか、労力とは、怠けるとはなんなのか、
定義が違えばすごく働き者に思われるかもしれないが
全ての思考の始まりは「面倒ごと」からの脱却なのだ。
仕事でも自身の考え方が生きる役割をずっと担ってきた。
私はデザイナー→ディレクター→プロジェクトマネージャー
というキャリアを歩んできたのだが、その日々は面倒なこととの戦いだった。
それって一見、独りよがりになりそうだが、私の一味違うところは仕事になると、自分の面倒だけではなく他者の面倒、クライアントの面倒など、周囲の面倒ごとに置き換わることだ。
世の中の役に立ちたい。
そんな崇高な考えで仕事をしてきたわけでない。
面倒は敵だ!!
ぐらいの勢いで仕事場に散らばるさまざまな面倒を親の仇のように駆逐して生きてきたところがある。
そんな面倒が嫌いな私ができるだけ楽しく、心をナマケモノ状態で仕事をするために心がけていることは
・同じミスを二度繰り返さない
(二度目のリソースはタバコ休憩に使いたい)
・最も障壁が少ない道はどこか見極める
(「無駄」な遠回りに時間を費やしたくない!)
・ポジティブに仕事をする
(負の感情にリソースを割かない)
・得意な人に仕事を任せる
(適材適所っていうよね)
・好きなことに時間を割けるように環境を整える
(楽しいことをしている時間は面倒とは感じない)
こうやって仕事をしているが、仕事って次から次へと状態が変わるので、怠けた先の堕落という蜜にはまだ行きついていない。
一方でプライベートでは少し、堕落が見えてきている。
ご褒美として買ったルンバと食洗機が家事の時間を短縮してくれ、浮いた時間を趣味に費やす。
DIYをして、自身が住みやすく、目にも心にも満足を与えてくれるインテリアを安く実現させる。
浮いたお金を趣味に費やす。
そうやって面倒ごとの解決に労力を最大限に割き、どうやったら快適に生きていけるのか、最大限思考のリソース使う。
そして、整った環境で最大限、堕落の限りを尽くすことを喜びに感じるのだ。
元々の根源は変わらないのに、堕落が見えてきたプライベートと、戦い続く改善魔の仕事の私では様子が違うようで、両者を知る人物からは「変わりすぎでは?」と言われることがある。
でも、この振り切った性格も案外気に入っていて
これからも付き合っていってやろうと思っている。
周りの流れが良くなると、自分も澱まない
他者の面倒を解決するためには、他者の気持ちにならないといけない。
クライアントの面倒を解決するためには、クライアントの気持ちにならないといけない。
なんとなく、本能的におこなっていたのだが、これって真理では?と最近思うようになってきた。(気づくのが遅いのはとりあえず置いておこう)
私は幼少期に何度か引っ越しを経験しているのだが、その経験から相手が今正の感情か、負の感情かがなんとなくわかる特技を身につけている気がしている。
特技といっても100発100中ってわけじゃなくて、「なんとなくわかる」程度なので、見抜けずに失敗を犯すことも多い。
そんな特技を持っているからこそ、制作やコンサル、マネジメントの仕事を行うときは、無意識に相手の表情や口調に敏感になっていた。
この人は納得していない。
少し、何かに引っかかってるかもしれない。
何か話したそうな雰囲気がする。
淀んだ流れを敏感に感じることが多かった。
その淀から目を逸らし、知らぬふりをすることがとても気持ち悪く、解決方法を探る。
そうすると無視して進めた時より、相手の信頼を早く得ることができて、よりクリアに流れ仕事が進む。
結果、面倒ではない仕事となるのだ。
周りの面倒や引っ掛かりを除去すれば、周囲の事柄が清流の如く気持ち軽やか流れ、自分が楽しく仕事ができる。
一度の成功体験から、単純な私はその真理に基づき行動することが多くなった。
何が重要か考えてみる
こうやって相手の面倒ごとを除去して、自分の環境改善に勤しむ中で、自分の向き合い方も変わってきた。
自分が思ってなくても、こう発言してあげると相手は気持ちよく動ける。
ここで同意してあげた方が相手のためになる。
そうなると、自身の周りが清らかに流れていき、気持ちよく物事が進んでいく。
でも時たま、自分の思考との対立が生まれることがある。
例えば
今度の連休に親友と出かける約束をした。
どこにいくのか?
親友は山に行きたいというが、私は海に行きたい。
その時に、私はそれぞれの行き先に出向いた時の道中を思い浮かべるのだ。
不平不満を生まないぐらい、海の魅力を私は親友に提示できるのか?
海に行った時に、親友が心底楽しめなくて、何か不満の目を与えてしまう可能性はないか?やっぱり私が我慢して山に行くのか・・
考えるだけでも面倒な選択だ。
だけど、こういったことは人生、何度も訪れる。
人生は面倒で手のかかる道なのだ。
面倒をどう取り払うか、自分の思いをぶつけて対立したこともあったし、懐柔しようと試みたこともあった。
そういったときは総じて、自分の希望を叶えても何かしら心にササクレを抱える結果となってきた。
このような事象を繰り返すことが面倒でもあり、面倒が敵の私には許されない事態だった。
何事でも解決する際には「大切にすること」を明確にする。
そうやって、私の得たいゴールを定めることにより、何が重要とされるのか、どんなことが発生するのかを考えることにした。
山に行くこと、海に行くこと
そこで得られるもの
過程を思い浮かべて、各場面から共通の事柄を探し出す。
そう、共有のことは「いつでも親友が隣にいること」なのだ。
え、こんなこと改めて考えなくても分かっているよ。って声が聞こえてきそうではあるが、実際に直面すると意外と見落としがちになってしまうのである。
私は山や海に行くことが目的ではなく「友人と一緒に」どこかに行くことが目的だったのだ。
それこそが重要なポイントであり、山や海で得られる体験は、ついでなのだ。
こうやって、いろんな外的要因を受けて、思考を柔軟に変えていくことで、レジャーの後の一人反省会を回避しつつ、面倒ごとを面倒と思わない思考回路を手に入れてきた。
そして、そこで得たものは
自分が無意味だと思っていたことも、視点を変えれば学びや充実を与えてくれる事柄だったこと。
自分が描いていた予想を裏切る良い成果を得ることもできること。
この二点だ。
怠ける話から外れてしまったようだが、私の中ではあまり変わらないことだったりする。
「負」の要素を考えることにリソースをさくのではなく、「正」のことを考えることにリソースをさく。
そうすると、心の負荷がへり、自由気ままに心を怠けさせることができるのだ。
さいごに
取り止めもなく書いてきたが、私は怠け者でめんどくさがり屋だ。
私の人生どうやって快適に過ごしていけるか、いつでも考えている。
でも、私の人生の登場人物は私一人ではない。
結局のところ「自分だけが快適」は「自分が快適」とは限らないのだ。
完璧で快適な生活を手に入れるために、私は何かしらの接点をもった人たちの快適さも考えて生きていきたいと日々思う。
人は一人では生きては行けないのだから。
フタユビの長い独り言でした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?