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もっともたちの悪い依存習慣は何か?

 この投稿は、前投稿「キモチの良いことは良いことだ」と対をなす内容になりますので、是非そちらも併せて読んでいただけますとうれしいです。

 何かに依存して生きることはなんだか悪いことのようなイメージがありますが、私はそうは思いません。それどころか、人は何かに依存しながらしか生きることはできないとすら思っています。これは、宗教を日常に意識しているようなカルチャーにとっては当たり前のことかもしれません。「宗教」は、英語でいうと「religion」、すなわち「たよっているもの」です。イスラム教徒とかキリスト教徒とかのひとたちは、もう前提として、自分ではない何かに依存しながら生きる、ということを自分の心にセットしているのかもしれません。これはとても健康的なことだと思います。昔、「アストロ球団」という、超人で構成されている野球チームの漫画をジャンプでやっていて、その漫画によく出てきた言葉が「自らに頼る、それが超人だ!」という言葉でとても印象に残っていました。そう、普通の人は自分の外にある何かに何かしらすがってではないと生きていけないのです。

 ここで、私が言う「依存」の定義について確認しておきます。依存とは「XXXがなくっちゃ生きていけない」という言葉の中の「XXX」を頼って生きることです。

 例えば私はなにに依存して生きているのかというと、明らかに依存状態にあるのは家族ですね。あと、仕事の仲間たち。身の回りの人間への依存は必須です。人間以外にもいろいろなものに依存して生きています。私のfacebookみると一目瞭然ですが、例えばロック。「ロックがなくっちゃ生きていけない!」と叫びたいです。あと、たとえばおいしいお酒と食事。「おいしいものがなくっちゃ生きていけない!!」とめちゃくちゃ叫びたい。最近中日ドラゴンズへの依存から脱却しましたが、5年くらい前までは「ドラゴンズがなくっちゃ生きていけない!」という人生でした。依存対象というものは、個人にとってゆっくりと変遷しながらも何かしら個人の中に大切なものとしてセットされているわけです。FacebookなどのSNSコミュニティは、私も含めた多くの寂しい中年たちにとってなかなか心地の良い依存先だと思っています。

 一方、残念ながら、「自分の外にあるものに依存して生きる」ことには若干の副作用があります。たぶんそれは3つ。一つは、依存すること、すなわち「それなしでは生きられなくなる」ことによって、自分の生活のバランスを崩してしまうリスクを持つこと、二つ目は、依存される側にとって重荷、あるいは迷惑な存在になりかねないこと、そして3つ目は、ある個人の依存状態が複数の他者に弊害をもたらすことです。

 この3つの問題のうち、「社会問題」とされたり、「取り締まり対象」とされたりする副作用は主に1です。3だと思われるかもしれませんが、私の認識では1です。そして、その状態が「極端である」ということで「病気」の烙印を押されてしまう依存目的もやはり1です。

 取り締まり対象となる依存の代表的なものは「ドラッグ依存」です。大麻はまさにその象徴的な対象です。確かに「ドラッグ」は個人の生活バランスを狂わせます。私も、きっとお酒や音楽(私の認識では、酒や音楽は立派なドラッグです)への依存がもう少し小さなものであれば、もっと「ちゃんとした人間」として生活が遅れているのかもしれませんが、ワインもテキーラもレイヴもライヴも大好きなのです。そのために、あまり効率的な人生ではなくなっています。でも、お酒を飲んで気持ちよくなったり、ライヴでハイになったり、友人と仲良くなったりすることは私の人生にとってとても大切なことなので、お酒や音楽にある程度依存した生活を私はこれからも続けていきたいと思います。

 ただ、「適度に依存」することがむずかしいドラッグがいくつか存在します。さらには、「それに耽溺している個人」あるいは「それがない状態」にある個人が社会を乱す行為をしばしば起こしてしまうドラッグが存在します。それがコカインだったり覚せい剤だったりデ○○だったりです。今までの歴史が、「適度に依存することができない度合い」「ドラッグへの耽溺状態の危険度」「ドラッグ離脱困難による破滅的行動」をはかりにかけた結果、それを所持すること、使用することを厳しく法で制限し、それを破ったものを厳しく罰することにしたのです。社会の秩序を保持する上で、個人、あるいは社会にとって「それそのものが危険」なドラッグは確かに存在するし、それを厳しく取り締まることに私は賛成です。

 一方、このような物質に対する依存はわかりやすいのです。「覚せい剤やったら逮捕で禁錮」です。そして、特定物質使用への依存は本人の自覚も明確です。社会問題としては「いかに取り締まるか?」を考えればよいのだと思います。より難しいのは、物質でないもの、より概念的なものに対する依存状態のマネジメントです。

 まずは恋愛対象者への依存。ストーカーと呼ばれる人の心理はおそらくこれに当たるのでしょう。そして、特定個人への依存は執着を生みがちです。すなわち、バランスがとれていない依存状態です。そして、依存行為としてのストーキングは、前述の“1”および“2”、特に“2”については甚大な被害を及ぼす可能性があります。ただ、物質使用と違い「依存していること」「依存のために逸脱した行動をとっていること」の根拠を明確にしにくいため他社からの介入が難しいです。

 さらに難しいのは、「ある程度」なら規制される対象にはならくても、耽溺してしまうと問題になるような「過度な」依存習慣でしょう。インターネットや麻雀、お酒、サッカー応援、AKB押し等々、適度であれば「趣味」となり、仕事にすれば生活の糧になるものはたくさんあります。しかし、多くの場合これらのうち一つに関与している時間が人生の半分以上を占めてしまうようになると、社会生活が危ぶまれてきます。また、セックス依存などの場合は直接他者を巻き込んでいくという意味ではより問題が大きいかもしれません。

 そして、最も難しい、かつ、このブログのタイトルにある、私が「最もたちが悪い依存」と考えるのは、依存して居うる本人がその過剰な依存状態を意識しておらず、かつその状態を社会も「問題行動」として認識しないような依存状態です。私は、その代表に「正しいことへの依存」、「優劣関係への依存」、そして「働くことへの依存」があると思っています。

 「正しいことへの依存」とは、物事のすべてについて「正しさ」を求め、「正しい」ほうに付き、「正しくない」ものを攻撃する、という習慣です。この依存は「正しさ」を外在する価値に求めます。その価値の中でよく利用される根拠が「法的規範」と「神の意志」と「科学的であること」です。これらに共通するのが「なかなか抗いがたい価値を持つ正しさ」です。そして、「正しさへの依存」がもたらす大きな害は「正しくないものをこらしめること」であり、もう一つの問題は「正しいカルチャーを作って増大していくこと」です。この世に起きている憎しみの連鎖の大きな要因にこの「正しいことへの依存」、そして「正しきカルチャーの増大」があるのだと私は思っています。繰り返しますが「バランスがとれた依存状態」であれば、人や社会が正しさへの依存を持つことはむしろ秩序のある社会を生み出します。ただ、この均衡はしばしば破たんし、極端なカルチャーを生み出すのです。私はこういう文化を「暗い文化」と呼んでいます。

 「優劣関係への依存」は「正しさ依存」にほぼ似ていますが、より優位に立つ側の一方的な攻撃を生みやすいというところが少々異なるところです。「部長」とか「A組」とかは、それだけで相対的優位性を発揮することができ、それはきっととても「キモチの良い」ものです。これも「正しさ依存」と同じく、ある程度その立場を意識しながら適度な均衡を自分の中にセットすることで、社会の秩序を保持する機能を果たします。しかし、実際には「優」の立場を手にし、「優劣関係への依存」を始めてしまうと、「優」の誘惑にからめとられてしまう個人は少なくありません。そして、その個人によって「劣」とみなされた人に害を及ぼしていきます。組織上の優劣や規則上の優劣そのものを取り締まることは当然できませんし、それによる「優」がおこす「劣」への害に介入するのも難しいのです。だからこそ「たちが悪い」と私は感じています。さらには、そもそも「優」でも「劣」でもないのにそこに「優劣」を持ち込む場合があります。もっとも代表的なものは人種差別です。「差別する側」はしばしば「その側」の立場に立ち続けることに過度に依存してしまいます。社会はこのたちの悪さに介入していく義務があるでしょう。

 もう一つが「働くことへの依存」です。世に「ワーカホリック」を自称している人たちがいて、それはそれでよいと思います。働くことによってキモチがよくなり、個人の生活も破たんせず、さらにそれが社会貢献につながるのであれば、かなり「たちの良い」依存習慣であるといえます。私がこれを「たちが悪い」部類に入れたのは、「働くことへの依存」が密接に「正しさ依存」および「優劣依存」と結びついているからです。

 すなわち、「私はこんなに働いている」という感覚が一種のプレステージステータス感覚となり、そこから「自分より働かないやつ=けしからんやつ、あるいは、劣っているやつ」という認識が生まれることが現実的に起きていることを私は主観としてしばしば目にするのです。そして、ワーカホリックは、ワーカホリックでない人たちを追い込んでいき、時に自分と同じようにワーカホリックになることを強要したり、ワーカホリックでない状況を非難したりしていきます。

 文章がかなり長くなってしまいました。まとめの代わりとしての私の主張は、「人が人を執拗に責めるとき、そこには責める側がなにかしらの過剰な依存状況を持っているのではないか?」という仮説を立ててみるのがよいのではないか?ということです。そして、その過剰な依存状態を責める側が少しでも自覚することが、人が人を責めることから赦すことへの多少の効力を持つのではないか、ということです。「リハビリの夜」を書いた熊谷 晋一郎さんが言った「自立とは、依存先を分散させることである」という言葉に、私は過去とても感動し、元気づけられました。適当な感じに分散しながらほかの何かに依存して生きていくのが「ラクな生き方」なのかと思います。

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