目的に向かないという新しさ

先日超ご近所の駒澤大学で「ナラティヴ・コロキウム」なる壮大なタイトルの会合があって、やじうまがてらに行ってきました。今回のテーマはオープンダイアログ。斎藤環氏の本はパラパラと読んだのですが、今回この会に参加してみてよい意味で啓発され、自分の目指している方向性とかなりリンクしたのでまとめてみます。

 さて、オープンダイアログはナラティヴの進化形+具体性の高いメソッドとして注目されていますが、ものすごくざっくりいうと以下になると思います。

1 クライアントの陣地に複数の専門家で乗り込んでいくこと

2 解決を目指さず、対話を主人公とし、対話を広げることに集中すること

3 専門家同士で、行われた対話に対する感想をクライアントの前でいいあうこと。さらに、その場以外ではクライアントについて何一つ専門家同士で話さないこと

4 慢性化させず、瞬発力を利用すること

この3つはまさにナラティヴのコンセプトのアプリケーションとして王道である、かつ実に実践的なアプリケーションだと思いました。すごいなあ。

 まず1.これは、構造で患者と治療者という対立構造を作らないようにするという仕込みだと解釈しました。また、人を中心にせず湧き上がってくる物語を中心にしていくためには、そこに登場人物が登場しやすい場があって、いろいろな人がその都度登場する環境が設定されることが理想的であるのはちょっと考えれば当然ですね。

 つぎに3. これは超新しい。そして、正しいなあ。対面型の対話だと、いくらクライアントに対して侵襲的にならないように注意していたとしても、どうしても語られることだけに目を向けることがむずかしくなってクライアントを巻き取ろうとする意図が出てしまいます。クライアントについて話すとき、クライアントに向かず専門家同士で話す。そしてクライアントはそれを見ている、という構造は、人に入っていかないこと、侵襲性が抑えられること、クライアントが自分を客体的に理解すること、このようなことに対してかなり効果の高い構造だと思いました。これを内科の領域でできるのかがまだよくわかりませんが、ひょっとしたらできるかもしれません。そして、裏で何も話さないというのは、関係性を深めていくうえでかなりいい手法だと思います。まさに湿度低めの愛ですね。

 つぎに4. ここはまだあまり飲み込めてないんだけど、きっと物語を描き出すときには感情とか認識とかがハジケだしているというのが重要なのではないか、ということかと解釈しました。凪の状態では対話はうまくいかない。感情や考えに衝突が起きている状況をうまくキャッチするということでしょうか?

 そして2. これはここ数年ずっと考えていたことでした。確かに問題解決型の対話の進め方というのは専門家が技法を覚えて使えるようになるとうまく行くことが多く、それはそれでとても有用です。糖尿病の生活習慣の変容だとか、パニック障害とか、慢性疼痛とかには基本自分は問題志向型の対話の技法を使ってきましたし、これで成果も得てきた気はしています。一方、問題志向型の対話にどこか限界も感じている自分がいました。そして、なんといっても「この問題は本当に問題なのか?」という問いを感じていたのです。

 たぶん私はとても合理的な思考をするタイプの人間で、その志向性によって「うまくいった」ことは数知れません。物事を進めていく上で合理的と認識される進め方は「目的を定めてその目的を達成するために何をどのようにあるのかについて計画を立て、その計画を最も効率の良い方法で遂行する」というようなことかもしれません。ある問題が起こり、もしくはある人が目の前の現状に問題があると認識し、その問題を解決することをやろうとするときには、上記のような合理的思考というのはとてもうまく機能します。紛争解決におけるナラティヴの導入は、対立する当人同士を問題に焦点を当てることで「うまくいく」方向を見出していく方法論なのだと解釈しています。

 一方で、問題の設定やゴールの設定というのは知らないうちに治療者側の思惑のもとに行われます。それは、クライアントを縛る鎖でもあり、ドミナントストーリーの知らず知らずのうちの押しつけでもあります。この一年くらいで考えていたことは、例えば、「血糖値がなかなか落ち着かない人の血糖値が落ち着くように患者と医療者でともに考える」というような方向性からブレークスルーしたいということでした。そして、ひょっとして、問題を「克服するべきこと」ととらえず、解決に向けた目標やゴールを設定するということから自由になるというようなストラテジーが何かしらの「素敵なこと」を生み出すかもしれないというようなことを夢想していたのです。

 そんな矢先に出てきたのがオープンダイアログで、ただそこにあるプロセスを芳醇にするということだけにコミットする。そうするとクライアントはなんだかよい方向に向かっていく、というような実証的根拠はものすごく新鮮で勇気づけられるものでした。まだ「これだっ!!!」という感じまでつかみきれてませんが、「これかも!?」という感じではあります。

 プロセスへの純度の高いコミットメント。これは他者に対する無償の愛でもありますし尊敬の念でもあります。このことがいろいろな文脈を持った複数の人間の間で場として共有され、新たな対話が紡がれていくというダイナミズムは、きっと精神医療の領域だけのアプリケーションではないという確信めいたものは自分の中に存在しています。内科の慢性疾患、合意形成、救急医療。こんなところにもアプリケーションがある気がしています。具体的なアプリケーションとして腑に落ちるにはまだ3回り位する必要がありそうですが。まあ、医療というよりは、医学教育みたいな分野では確実にアプリケーションが生み出せそうで、今の「アウトカム基盤型教育」がなんだかうまくいっていない中で、他者との未だ見ぬ邂逅やわけのわからない事件に巻き込まれる中で人が成長するなんてのはロードムーヴィーの定番の法則なわけです。

 さて、そうなるとさらなる悩みは「うまくいった」ということを何をもって言うのか?ということです。誰かの何かの変化をもって「うまくいった」と考えるのも実はドミナントストーリーの中にあります。成果そのものから自由になるのはなかなか骨が折れます。そして、人にそのメソッドが「イケている」ものであることを説明することがむずかしいです。ただ、「うまくいった」ということも含め物語の中に入れていくことがオープンマインドのエッセンスなのだと思います。

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Seiji Bito

コメント3件

尾藤さん

非常に分かりやすい解説、有り難うございます。
見事です。こうやって、心の中でのキャッチボールを文章で落としていただくと読者にとってとても分かりやすい表現となるのですね。
「解決」を求めないで「プロセス」に介入していくDM診療の拙い体験を紹介させていただきます。
40数年の2型DM歴をもつある女性は、ずっとコントロールが悪い状態が続いていましたが、「インスリンだけはイヤ、絶対にイヤ」と言っていました。インスリン質問表に答えていただき、誤解を解くための説明もしましたが、気持ちは変わりません。ところが、ある日の午後、談話室で珈琲を飲みながら、60分近く談話をしました。その中で、彼女が幼い頃、インスリンを打っていた彼女の母親が低血糖で倒れるのを何度も見たり、一緒にお風呂に入ると、母親のお腹に皮下出血斑がいくつもあって怖かったことなどが語られました。こうして彼女のストーリーをじっくりと聴き、そりゃぁ、インスリンを受け入れられないのは無理もないね」と治療者である私は納得しました。すると予想外のことが起こりました。翌朝、ご本人から「先生、あたしインスリンを打ってもイイよ」と言ってきたのでした。解決を求めないで、プロセスに介入していくことでうまくいくという事例はDM臨床ではときどき経験します。先生のコラムに刺激され、思わず自験例についてお話させていただきました。
コメントありがとうございます。まさにそういう感じです。専門職がクライアントと一緒に何かに向かうとき、どうしても専門家側のエゴイスティックな意図が混じってしまうので、そこにクライアントは敏感に拒否反応をするのだと思います。
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