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感情的嫌悪と、意見対立と、異なる意見の提出権利はく奪との関係

 「表現の不自由展」における名古屋市の介入について知りました。結構とんでもないことが起こっているなあというのが雑駁とした感想です。このニュースについても毎度同じようにあまり詳細を把握していないのですが、今回のことはすごく問題が複雑で、考える部分がと他もたくさんあります。たとえば、「自治体や国のような統治機関が、そもそも美術展などのアート表現の主催者になってよいのか?」という問いはけっこう難しい問いのように思いました。例えばもともとアート、特に現代アートというものはドミナント価値の転覆をアイデンティティとして内在しています。有名なマルセル・デュシャンの「泉」などが芸術作品として大変重要なのも、そこに価値の転覆が実装されているからです。ですから、自治体や国にとっては、そもそもアートというものは“すべて”自らの足元を揺らがせる爆弾のようなものなのです。いったん展示を認めた芸術作品を行政の力で取りやめにするというのは、アートにたずさわる人間から見ると理不尽な強権行為にしか理解できませんが、そもそも自治体や国という政治的な統治機関が、そのカウンターをエッセンスとするアートの催しの主催を行う、という矛盾が現れた事例でした。

 今回の事件の細かい内容はさておき、これからは私がニュースを見てインスピレーションを受けたことについて書きたいと思います。テーマは、感情的嫌悪と、意見対立と、異なる意見の提出権利はく奪との関係についてです。

 象徴的だったのは、今回この展覧会が中止になる経緯となったのが従軍慰安婦問題と深く関係がある「平和の少女像」であったということです。私は、国政上の韓日関係におけるいろいろなアジェンダをややこしくしているのは「私は、あなたが嫌いだ」ということと「私の意見とあなたの意見は大きく異なっていて、私はあなたの意見を受け入れることができない」ということが、ごちゃごちゃになっていることだと思っています。このことは、私たちの日常にもいたるところで見られます。例えば、ある企画について議論をしているとき、もしその企画の提案者があなたの大嫌いな人だった時、提案された企画そのものに対して少なからず嫌悪感が出てしまうということが実際には少なくありません。大嫌いであるその人と、その人から発案された企画は基本的に別物なはずなのです。ところが、感情というものは「人」と「アジェンダ」をうまく切り分けて思考することを邪魔します。これは逆もしかりで、自分が大好きな人が発するメッセージはなんとなく賛同してしまう気持ちになったりもするのです。ただ、人間の感情は面白いもので、基本的にポジティブな感情よりもネガティブな感情の方が自分の認識に介入する度合いはずっと高く、「嫌いな奴」から発せられたメッセージはそれがそのまま「反目する意見」のように認識されがちです。

 まず、「好き/嫌い」は個人の感情です。個人が持つ感情に他者が何らかの介入を行うことは可能ですが、その感情を「間違った感情」として正そうとするのはちょっとやりすぎかもしれません。ですから、「好き/嫌い」を個人が抱くことそのものは個人の自由なはずです。ややこしいのは、他者に対する「好き/嫌い」の発芽はその感情を抱く当事者の価値観や規範とも密接につながっているということです。ですから、自分とは反対の考え方をもって生きている人に対して「嫌いだ」という感情を持つようになる、ということも当然あるのです。

 ある個人のインナーワールドにおける感情と認識の処理のレベルにおいて、実は「好き/嫌い」と「賛成/反対」をすっきり切り分けるのは実に難儀な作業なのだと思います。しかし、私はそれを自分の外にメッセージとして発信していくときには、自分の中に「好き/嫌い」と「賛成/反対」の蜜月関係が存在していて、その中で自分のあるアジェンダに対する認識や、誰かに対する好意あるいは嫌悪感が生まれているのだということについてしっかりと意識していくことが大切だと思うのです。「基本的にこいつのことは大嫌いだが、今回の件に関してこいつのいっていることにはとても賛同する」とか、「この人と自分とはほとんど意見が合わないんだけど、だからと言って特に嫌いではない。むしろ好き」というようなことが自分の中でどれくらいおこるだろうか、ということについて意識することから始めてみると良いのかもしれません。いずれにしろ、私自身もしばしば自分と反目する意見を言う人を嫌いになりそうになることがあります。そんなときには「いやいや、それとこれとは別だろ」と自己ツッコミを入れるようにしています。

 もう一つの段階は、自分とは異なる意見の表象しようとする他者がいたときに、その表象の権利を奪うという感情が芽生えるという問題です。今回の名古屋市長の判断が物議をかもしているのはここだと私は認識しています。「メッセージを発する機会を持つ権利がある」ということはとても大切なことです。今回の選挙で令和新撰組の取った方法が「メッセージを発する機会を持つ権利をもつ」という目的に集中していたことはとても象徴的で戦略的にも秀逸だったと思います。民主主義の根幹の一つは、以下にその意見がある立場の者にとって厄介な意見であったとしても、その意見が発せられる権利ははく奪されないことです。

 しかし、それでもなお統治をする側に立つ人たちは、個人が持つメッセージを発する権利を剥奪しようとします。アートの展示会は、個人の表現の自由が最も発揮される場であるにもかかわらずそのようなことは行われるのです。深刻なのは、権利を剥奪する側が、それを行使できる権力を持っていて、さらにその根拠となるものが社会秩序の保持というよりは「俺と反目するメッセージだから」ということ、さらには、そこに「俺、そいつのこと嫌いだから」という嫌悪感情が少なからず紛れ込んでいるということです。

 「表現の不自由展」の件においては、それが比較的大きな枠組みの中で物議をかもした事案だったのですが、「好き/嫌い」と「賛成/反対」と「反対意見を出す権利をつぶす」という3つのことが切り分けられずに対話が分断されることは私たちの日常生活の中でもしょっちゅうあることです。一番厄介なのは、私自身も含めた「おじさん」たちです(この「おじさん」は意図的な差別発言です)。「おじさん」たちは平気でこの3つをごちゃごちゃにしたまま物事を進めようとします。私自身も、常にこの3つが別物であることを意識していないとこの構造のトリックにはまってしまいます。

 あまりうまい処方箋はないのですが、自分が意識していることは、少なくとも自分よりも意見を述べる機会や立場が少ないと考えた人が意見を述べたとき、それがどんなに自分とは異なる意見であったとしてもその意見を宣伝しようと思っていろいろやっています。あとはもう、自分のインナーワールドの感情処理なのかなあ。

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