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[ボヘミアン・ラプソディ]感想 「変態」とは、自己を見出し開放すること

皆さんの評判を聞いて「ボヘミアン・ラプソディ」見てきました。
最初にすいません。本投稿内容は「この映画の芯はフレディが”変態”していく=自分を見つけ開放していくをプロセスである」という内容でして、それがLGBT差別だと認識される方が多少いるかもしれませんがその意図はないつもりです。

フレディ・マーキュリーとクイーンのことが大好きな人が丁寧に作った映画。そして、クイーンの歴史を知っているコアなファンも、「ウィーアーザチャンピオン」聴いたことあるくらいの人もそれなりに心揺さぶられる映画という意味でとてもよくできた映画でした。

たぶんこの映画のストーリーラインの根幹の一つは「バンドと私」というところで、バンドマンである俺自身も、特に作詞作曲者+ボーカリストかつバンドメンバーという人間の持つ葛藤はいろいろ理解できるところもあるし、「バンドに帰っていく」という物語はきゅんと来るところです。一方で、俺はこの映画の見どころはやはり「変態」にあると思います。

「変態」とは、「社会一般から逸脱したセクシュアリティ」を意味していることが多いのですが、同時に生物用語では「進化の過程で生物が形状を変えていくこと」でもあります。すなわち、「変態」とは、正規分布から逸脱している状態のスナップショットのみではなく、そこに向かっていくダイナミズムを持つということです。この映画の神髄はそこにあります。

人が「変態」していくことは、実は自分を解放していくこと、本来の自分を発見していくことでもあります。人は、社会の中で「まとも」とか「正しい」とかの存在であることを無意識に強要されます。うまく社会の中で生きていくためには、多少なりともその「まとも」とか「正しい」とかに自分をむりやり寄り添わせていかざるを得ません。思春期を過ぎ、「もう子供ではいられない」と知らない誰かから言われるようになると、「メジャー」なる規範が自分の人格の一部を支えるようになっていきます。それは、実は自分を束縛する鎖なのかもしれません。

ただ、ちゃんと「変態」するチャンスは人生の中に何度もあります。そのチャンスに出会ったとき、自分としっかり向き合うことができるかどうか、ということなのかと思います。一方、「変態」していくことには様々な困難が伴います。それをはばむもの、そこに付け込むもの、「変態」のプロセスの中で、離れていくもの、その環境変化が生む絶望的な孤独。これらの中でも「孤独」は強烈に人をむしばんでいきます。一時的な孤独は人の変態において避けられないプロセスなのかもしれませんが、強烈な孤独の環境において、一人で立ちつづける強さを持っている人はほとんどいないと思います。その意味では「物質依存」というのも、その状況だけを切り取って語るとその本質を見誤っていくのだと思います。ゾロアスター教の教えである「善い考え・善い言葉・善い行い」に至るプロセスこそが「変態」なのだというのがこの映画を観た感想です。

この映画で俺が一番ぐっと来たシーンは、フレディがジム・ハットンの家を探し当て訪れ、「いったいロンドンに何人ジム・ハットンがいると思ってんだ?」と話したシーンです。この時、フレディは自分が生まれてきた意味について真に理解したのだと思います。あのシーンを見ていて俺の脳裏に出てきた映像は、HUNTERXHUNTERの「蟻」編で、蟻の王(メルエム)がコムギ(人間)とともに死の淵にありながら軍棋を打っているとき、「余は、この一瞬のために生まれてきたのだ」と気づくシーンです。人間は、自分が愛する人と愛し合うために生まれてくるのです。そして、それを見つけることはそんなに簡単なことではないのです。

それにしても、ジム・ハットンもブライアン・メイも本人なのではないかというくらい色々似ていました。顔のつくりというより、醸し出すオーラがまさに本人でしたね。

最後に --これは読み手にとっては完全に蛇足ですが-- この映画のクライマックスは何といっても最後の20分の演奏のシーンです。映画館はこのシーンでまさに感極まっていくのですが、俺自身はそれほどの盛り上がりにならずにしみじみしながらラストシーンを見ていました。なんで自分そんなに盛り上がらなかったんだろう?と自省するに、ライヴ・エイドそのものに対していろいろ思うことがあったりとか、オリジナルと照らし合わせちゃったりとかいろいろあったのかもしれませんが、多分一番の理由は映画見る3日前にキング・クリムゾンのものすごい演奏を観てしまったのが原因だと思います。


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