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敵対関係にある「馬鹿者」への向き合い方

  「価値の多様性を大切にしましょう」というスローガンは、左脳ではたいがい賛成できる意見ですが、しばしば右脳で腑に落ちないことがあります。実際に目の前に自分と明らかに対立する認識や価値を持つ人が現れたとき、「まあ、みんな人それぞれだからね。みんな違ってみんないい!」というような考え方に対して「何を悠長な!」というツッコミは必ず出てきます。ここでは、心のざわつき、心に余裕がなくなっているような状態が沸き上がっているのです。心がざわつくことは悪いことではありません。むしろ、のっぴきならない状況にあるからこそ心はざわつくのです。「この馬鹿者と、どうやってやっていけばいいのだ?」という問いがそこに生まれます。

 人は、しばしば自分の目の前にいる他者を「馬鹿者」と認識します。「目の前」とは、本当に面前なのかもしれませんし、TV画面越しの「目の前」かもしれません。おそらく、今TV画面越しに現れるトランプ大統領は、多くの湾岸沿いに住む北米人にとって「馬鹿者」と認識されていると思います。そして、人が他者を「馬鹿者」と認識するときには、それなりの大きさの陰性感情を伴っています。その感情は、「怒り」であったり、「いら立ち」であったり、「悲しみ」であったりと様々なのかもしれませんが、いずれにしろ、人が目の前にいる他者のことを「馬鹿者」と認識するときには、何らかの陰性感情の発現とセットなのかと思います。

 では、人が他者を「馬鹿者」と認識するときはどのようなときでしょうか?おそらく、人は、相手に対して何の期待も抱いていない時、その人間のことを「馬鹿者」とは思わないのではないでしょうか?たとえある人が自分とは全く異なる認識や意見を持っていたとしても、それが自分にとって何の影響も及ぼさないのであれば、それこそ「みんな違ってみんないい」みたいなところで落ち着かせておくことは簡単です。おそらく、その人に対して、もっと「利口」であってほしいという期待感があるからこそ、「利口」でない相手に対して「馬鹿者」という認識と、いら立ちなどの陰性感情が発現するのだと思います。

 ある人間がある人間を「馬鹿者」と考えるとき、おそらくは、自分の理念や主張を理解してもらいたいにもかかわらず、その対象者が理解しない場合、あるいは、受け入れてもらえない場合が想定されます。しばしば、愛し合っている恋人同士のどちらかが合い方に向かって「馬鹿!」ということがあります。この「馬鹿!」はもちろん愛情表現です。なぜ愛しているのに「馬鹿」なのでしょうか?いいえ、愛しているからこそ「馬鹿」なのでしょう。自分を受け入れてほしいにもかかわらず、相手が自分と同じ景色を見ていないことに対して恋人同士は「馬鹿」という感情が発現するのです。昔パール兄弟というバンドが「バカヤロウは愛の言葉」という歌を歌っていましたが、その通りなのです。

 一方、社会の構成員である人は、愛していない人とも一緒になって一つのことを成し遂げなければならない時がしばしばあります。例えば、ある特定のルールを作るとき、そのルールが発動されることによって影響を受けるであろう異なる立場の利害関係者が集まることがあります。そのようなときには、お互いの認識や意見は通常大きく異なっています。そして、自分が愛していない人が、自分の意見とは違う意見を持っていて、そしてお互いの意見がどうしても合わないとき、人はしばしば相手を「馬鹿者」と認識します。

 さて、「馬鹿者」に対して人はどのような手段をとるでしょうか?第一に取る手段は、解ってもらうための説明や啓発などの行為です。そのような努力が実を結ばなかったとき、つぎに取る手段は、自分にとっても相手にとっても同じように従わざるを得ない権威を持ち出してくる、という行為です。権威とは、例えば校長先生とか倫理委員会とか霞が関とか永田町とか憲法とかですね。それでも馬鹿者が馬鹿者であり続ける場合、第三に取る行動はその馬鹿者を合議グループから排除する、という作戦です。

 私自身も自分の人生を振り返ったとき、「馬鹿者」に対して以上の3つのカードのいずれかを切ってきた認識があります。そして、「もっとほかの方法があったはずだ」と後悔しています。確かに、たくさんの人と出会っていると、中には、本当に人の話を聞けない、あるいは、聞く気がない人がいます。そのような人と対話を行うことは、大変困難な作業です。しかしながら、この3つの手段にはそれぞれ問題があります。

まず、「わかってもらうための説明や啓発」は、ある程度は必要なのかもしれませんが、あまり有効に働くことは少ない気がします。なぜなら、その行為そのものが相手を「馬鹿者」と言っていることに相違ないからです。「あまり十分にご理解いただけてないようなので・・」という言葉は、なんとなく丁寧に聞こえますが、言っていることは「お前は馬鹿だ」と言っているのと大きな変わりはありません。そして、おそらく、相手もまた自分のことを「馬鹿者」と認識している関係性がそこにはあります。「お前は馬鹿だから俺が教えてやる」のラリーは、多くの場合よい合意を生みません。

第三の力を導入したり、「馬鹿者」それ自体を排除するというやり方は、それに比べると有効な手段になりうるかもしれません。しかし、それはとても暴力的なカードです。いってみれば、全体主義的なやり方です。その「馬鹿者」が、もしルールの範囲内で「馬鹿な行為」をしているのであれば、それだけでパワーによってその状況を押しつぶしたり、排除したりすることに私は反対します。おそらく、そのような強権的手段の発動はどこかで自分にそのまま降りかかってきます。一方、明らかにルールを逸脱しているのであれば、ルール違反に対して警告をし、ルールを破り続ける場合にはそのような強権発動が行われることは致し方がないのかもしれません。

では、敵対する「馬鹿者」に対してどのようにアプローチするのがよいのでしょうか?私は、最も有効なアプローチはその馬鹿者に共感していくことだと思います。自分にはとても受け入れがたい認識や意見を持つ他者は、その認識や意見を持つに至った経緯が必ずあります。その経緯に関心を持ち、理解しようとする努力こそが、同じ土俵に上がってしまった敵対者と交わるための最も有効な手段なのだと思います。もちろん、「理解」する必要はありますが、「納得」あるいは「同意」する必要はありません。ただ、他者が大切にしている価値や、その価値を持つに至った道筋について思いをはせ、理解していくことが大切なのだと思います。その片鱗にもし触れることができれば、自分が大切にしている価値や背負っている責任と、他者のそれとを「勝負」させるのではなく「シンクロ」させることができるのだと思うのです。「おとしどころ」をみつける始まりは、相いれないと思われた全く異なる価値をシンクロさせることなのだと思います。

その意味では、「馬鹿者」こそが私、あるいは私たちの最も大切な教師でもあるのです。まあ、実際にはそんな心穏やかに自分を言い聞かせるのは至難ですが。

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