令和190406

「New Order (based on) Harmony」の時代としての「令和」、そしてその象徴としてのピエール瀧にまつわる騒動について

 新元号「令和」は、その響きが音楽的で心地よいです。そして、自分がずっと考えていたこれからの世界の在り方を明確に表現している言葉であると気が付きびっくりしています。

 もっともその解釈にバリエーションがあるのは「令」という文字なのだと思います。「令和」に批判的な意見を持っている人たちは「令」を「コンプライアンス」と解釈していることが多いようです。そこから「国民全体が一つの命令や号令に従うことをイメージさせる」というネガティブな印象について批判があるようです。それはそれで一つの解釈ですが、私は異なる解釈をしました。端的に言うなら「令= Order = 秩序」と解釈したのです。そして、「和」については通常の解釈「Harmony」ですね。新しい時代の幕開けとしてのアイコン「令和」には「New Order based on Harmony」すなわち「調和に基づく新しい秩序の時代」という意味に解釈しました。まさにこれこそが私が夢想しているこれからの世界のキーワードです。「だったら令和じゃなくって和令じゃね?」というツッコミはあるかもしれませんが、まあ個人的解釈です。

 私は、紀元後の2000年間の世界の秩序(Order)が何によって成立していたかというと、それは「統治(ruleあるいはgoverning)」によってだと考えています。統治は、大きな社会の秩序を成立させるうえではとても魅力的な方法論でした。そして、その統治による秩序を強力に支えるバックボーンとして一神教があったのだと思います。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のような一神教は、宗教である一方で政治や行政、そして立法との相性が抜群に良かったのです。「一神教+統治システム」による世界秩序の形成と保持は、貨幣制度とともにこの2000年に生まれたもっとも強力な発明のひとつであったと思います。

 ただ、「一神教+統治システム」による世界秩序の形成と保持にもほんの少しですがきわめて重要な副作用がありました。それは、「規模の大きな戦争を生む」という副作用です。

 統治によって秩序だった社会は大規模クラスタとなります。そのクラスタは「国」という集団・組織を形成します。ここで重要なことは、統治されたそれぞれの大規模クラスタをクラスタ小兵のレベルで統治し、そこにさらなる秩序をビルトインさせるということははなはだ難しいということです。ミクロレベルでの統治システムでは、外れ値の個票は切り捨てるか修繕することで統治の仕組みに組み込む、という方法が通常取られるのですが、それをクラスタ単位で行うということはとても骨の折れる作業です。さらに、そのクラスタの規模が大きくなればなるほどクラスタ全体を抹消したり修繕したりすることは困難になるのですが、統治システムにおいては正直それ以外の方法がありません。そして、より大規模統治クラスタがより小規模統治クラスタに対して抹消・修繕を試みる所作は「侵略」と呼ばれるようになり、同規模クラスタのそれは「戦争」と呼ばれるようになりました。そして、統治システムの重大副作用である「侵略」と「戦争」は、この2000年ホモ・サピエンスの頭を悩ませてきました。あまりに大きな統治システムによるひずみによって、地球によって致命的ともなる大規模戦争が生まれないように、近代社会はいろいろの工夫をしてきました。それが「合州国制度」だったり「ユーロ統合」だったりなのだと思います。

 そして、現代社会になり「一神教+統治システム」による世界秩序の形成と保持に暗雲が立ち込めてきます。それは二つの大きな脅威の登場によってです。一つは「テロ」であり、もう一つは「インターネット」です。統治システムが前者に行った対策は、「モグラたたき」です。情報技術の発達の前まではこの「モグラたたき」で大体のテロ対策はできていました。問題は後者です。インターネットは平気で国境を越えます。そして、統治者の管理を飛び越していきます。ものすごく下衆な例では、「すき屋」や「スシロー」の「バイトテロ」も、ISが同士を集めていくことも、スマホとインターネットさえあれば可能なのです。「個」のレベルで地球規模に簡単に情報発信ができる社会では、統治システムにとって都合の悪い分子をたとえミクロのレベルであったとしても削除・修繕することが圧倒的に困難なのです。さらには、統治されている側に「統治の外にある視点」がばんばん入り込んできます。そこで、今までは見ていなかった景色を人は見てしまい、そしてしばしばその景色に「共感」してしまうのです。さて、困りました。「一神教+統治システム」ではこの新たな状況に対処することがとても難しいのです。

 私は、これからの情報社会において、もやは「一神教+統治システム」によって世界の秩序を形成・保持することはできないだろうと考えています。では、何によって世界の秩序は形成されるのでしょうか?私の考えでは、それは「調和と共感」によってです。

 調和と共感は基本的にミクロレベルのもので、ミクロレベルのまま広がっていくコンセプトです。不安定なものを不安定なまま受け入れながら、そこ状況に共感し、ミクロのレベルで調和を作っていくことが社会形成のエッセンスになっていくだろうと私は信じています。もちろん調和と共感のコンセプトがすべて統治に変わるとは到底思えません。統治をすべてなくしてしまうようなことは世界にとって利よりも害が大きいと私も考えています。ただ、「行き当たりばったりを楽しむ」ような世界を今のデジタルネイティヴの人たちは自分の自己形成のOSとしてインストールしているような気がします。それはとてもまぶしく私には映ります。チャンプルーズの喜納昌吉さんが言った名言に「すべての武器を楽器に」という言葉があります。これはまさに「統治から調和へ」という意味の神髄をついていると思います。「調和と共感」によってもたらされる秩序は極めて音楽的なのです。

 これからの時代は、きっと世界の秩序の基準が統治から調和と共感に緩やかに移り変わっていくだろう、そして、その瞬間に立ち会っていたい、というおぼろげな感覚を私はこの数年思っていました。そんな矢先に登場した新元号が「令和」でした。最初、私は「令和」を「令(rule)によってもたらす和(peace)」と勘違いし、なんだか嫌な感じを受けたのですが、漢和辞典などを調べてそれはどうやら勘違いであることに気が付きました。「令」はまさに「rule」ではなく「Order」でした。この度は新たな時代の「令」なので「New Order」です。そして、「和」は「peace」ではなく「Harmony」なのだと気が付きました。すなわち「令和」とは「New Order (based on) Harmony」、日本語に訳すなら「調和によってもたらされる新たな秩序」の時代のアイコンと理解しました。これは、自分が夢想していた新しい社会の在り方そのものです。

https://www.youtube.com/watch?v=MUDEkAj-uYQ


 これは電気グルーヴがテレビ出演したときのライヴ映像です。瀧も含めて演奏者は3人だけなのですが、そこで瀧は何をやっているかというと綿あめを作ってお客さんに配っています。これこそが瀧の神髄です。統治から自由に、理解が不可能で、それでもなんとなく共感できて調和していて実に楽しいです。これがピエール瀧です。私にとって、ピエール瀧は「調和によってもたらされる新たな秩序」時代の象徴なのです。

 つい先日、瀧が保釈されました。保釈会見の時にたくさんのファンが集まり「がんばれー!」「待ってるぞー!」という声援で飛び交いました。今まで、逮捕者の保釈時にこのような光景があったでしょうか?もちろん今回瀧が違法薬物を使用していたことは違法行為としてきっちり裁かれるべきだと思いますし、ここには「統治のシステム」による秩序保持が有効に機能する必要があると思っています。ただ、テレビから聞こえてきたあの声援は、私にとって統治一辺倒に傾倒していた社会秩序の中に、ほんの少し「調和と共感」と秩序を見ることができたちょっと感動的な光景だったのです。

 電気グルーヴファンには有名な話ですが、卓球と瀧は高校時代に知り合い、卓球が「お前が好きそうな音」といって聴かせたニュー・オーダーの「ブルー・マンデー」に衝撃を受けアーティスの道を目指すようになったといわれています。電気グルーヴの曲の中で最もガチでまじめな曲「N.O」も「ニュー・オーダー」からとったものと言われています。こんなところにも、今回の「令和」と瀧にまつわる一連騒動に必然を感じているのです。

「令和」が「調和によってもたらされる新しい秩序」の時代になることを祈っています。

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