やきじろ

「焼き鳥串外し」と「二郎大盛残し」のどこが似ていて、どこが違うか

 最近SNSで話題になった「焼き鳥串外し」と「二郎大盛残し」は、「よいこと/よくないことについて私たちはどう考えるか?」ということについて考える上でいいレッスンだと思いました。というのは、自分の中では直感的に「焼き鳥串外し」は「気持ちはわかるけど外してもいいじゃん」と感じた一方で、「二郎大盛残し」については「それはアカン」と思ったからです。おそらくこの二つの行動の中で、ソフト・ローを構成する基準が自分の中にあるのだろうと思いました。ちなみに、「焼き鳥串外し」と「二郎大盛残し」について簡単に説明します。

焼き鳥串外し:しばしば焼き鳥屋で焼き鳥を串から外して食べるお客さんがいるようです。それを憂いた焼き鳥屋の店主が「焼き鳥屋からの切なるお願い」として、「焼き鳥は串から直接食べてください。串から外したら焼き鳥じゃない」というメッセージをSNSで送り、その是非について反響があったというものです。詳しくは以下をご覧ください。

http://diamond.jp/articles/-/112139 

二郎大盛残し:これはとある「ラーメン二郎」で、二郎初心者のお客さんが、普通はどうやっても食べられない「大盛りマシマシ」を注文し、店員が「はじめは小からお願いします」と制止したにもかかわらず注文を強行。やはり食べられず、どうやらSNS投稿を目的とした注文だったようで大部分を残し帰ったという事象を受けて、店員がSNSで「クソ野郎三連コンボのお客様がいらしたので帰り際に人生初の『2度と来ないでくださいね~』が自然と口から出てて驚く」という投稿をし、これもまた議論が紛糾したというものです。詳しくは以下です。

http://www.excite.co.jp/News/smadan/20170306/E1488787516507.html

前提ですが、ここでは「店員の態度や行動は不適切なものであったか?」ということには一切言及しません。あくまでも「焼き鳥屋で串を外して食べること」と、「食べられないことがわかっていて大盛を注文し、やはり大量に残すこと」について私が感じたことについてのまとめになります。

1. 何が似ているのか?

 まず、この二つの行動の似ている部分について考えてみます。第一に、どちらもお金を払って提供された食事を客がどう食べるか、ということについての話題です。どちらの客も、ちゃんと適正にお金を払っています。それをどのように食べるかということについて、明らかに明示的なルールがあるわけではありません。少なくとも、外的な法規範を犯してはいません。第二点目として、どちらもほかのお客さんに対して直接迷惑をかけているわけではありません。行列を横入りもしていないし、大騒ぎをしているわけでもありません。これらは「責められる筋合いはない」という共通の根拠かもしれません。一方で、両者とも「お店の意図とは異なるマナーで食事をしている」という意味で共通しています。焼き鳥屋にとっては焼き鳥を串から外して食べてほしくはないです。ラーメン屋としても、残すことがわかっているなら自分の身の丈と食欲にあった注文をしてほしいと思っています。その期待にお客さんは答えていません。これが許容しがたいことかどうかはともかく、店側にとって苦痛を感じる行為を客がしている、という意味では似ています。

2. 何が似ていないのか?

 では、私はなぜ「焼き鳥串外し」は「いいんじゃないか」と感じ、「二郎大盛残し」は「アカン」と感じたのでしょうか?そこには何かしらの「似ていない部分」があるはずです。

 似ていない部分の一つは、「行動に至る意図」だと思います。焼き鳥の串を外す客はなぜ串を外すのか?それは、串から外して食べることが「より食を満足させる」という意図に基づいているからだと思います。たとえば、1本の焼き鳥を2人でシェアして食べたい、と思うことはしばしばあります。そんな時には串から外す方がずっと楽です。他にも、安全に食べたいという考えに基づいて串から外して食べる人は少なくないでしょう。小児や先端恐怖がある人は当然として、串を口に入れるという行為は、何らかの恐怖心を誘います。その恐怖心を感じない状態で、よりおいしく食べることに集中したいという意図については、私は共感できます。もちろん店主が言う「串から食べたほうがおいしいに決まっている」という意見にも同意はしますし、私も串から直接食べたほうがおいしいと思いますが、「焼き鳥串外し 」の「行動に至る意図」は、そのトレードオフ関係の中で十分理解できる意図と感じられます。

 一方で、「二郎大盛残し」の意図は「残す」ということが意図ではないでしょう。「残す」ことは結果論なのだと思います。「意図」は、「残す」ことにあるのではなく、「大盛りを注文する」ことにあります。ラーメン屋で客が大盛を注文することの意図は何でしょうか?そのほとんどは「たくさん食べておなか一杯になる」ことだと思います。ただ、今回二郎で大盛りマシマシを注文したお客さんは「たくさん食べておなか一杯になる」という意図とは異なる意図で大盛りを注文したように私は理解しました。すなわち、SNSに「俺は二郎の大盛りマシマシを注文した」ということを発出したい、という意図が「たくさん食べておなか一杯になる」という意図を大きく上回っていたのだと思います。ただ、そのこと自体は不自然なことではありません。私自身も「SNSで発信をしたい」ということを目的に行動することはあるのです。ここで私が感じている違和感は、「普通に考えて主となるべき本来の意図」と「それに付随する意図」との逆転、あるいは過剰な不均衡からくるものなのかもしれません。

 第二の「似ていないこと」は、第一の理由にも関連しますが、「利益/不利益バランスの均衡」です。「焼き鳥串外し」をすることによって、おそらくお客は利益を得ています。安全に食事に集中できることや、1本の焼き鳥を何人かでシェアできることは、食べる側にとっては明らかに「利益」です。一方、串を外された店側にとっては不快を得るという「不利益」があります。これがどれだけ拮抗しているのか、していないのか、というところが「あり/なし」と感じるポイントなのだと思います。私はここでお客さんが得る利益とお店が感じる不利益については、むしろ前者の方が大きいのではないかという気がします。もちろんこれもあくまで主観なのですが。そして、「二郎大盛残し」については、その逆の印象を持っています。ラーメンを残すことでの利益はお客側にはなさそうです。ただ、「大盛り」を注文することの利益はあります。私もおいしそうなレストランでついついたくさん注文してしまい、結局残してしまうということはあります。ただ、残しさとしてもそこにはいくらかの利益があるために、残したことを公開していません。「たくさんの種類を食べることができた」とか、「食べ残してしまったけれど、おなか一杯食べることができた」という幸せを私はそこで味わっています。二郎で大盛りを注文した方も、全部食べるつもりで結果残したのであれば、利益を得ているのだと思います。しかし、「どうやらこの場合では注文者の利益は「大盛りの写真を撮ってSNSに投稿できた」という利益であるようです。利益のベクトルが異なっているのです。利益のベクトルが異なっていることは功利において考慮するべきことではない、という意見もあると思いますが、私はそこについてたぶん違和感を感じているのだと思います。ある行為に対して、合理性のある意図あるいは選好と、そこに付随する功利というものに価値を置いているのかもしれません。

 第三の違いは、行為に至るうえで店員さんの制止があったことです。客に対して「最初は小からお願いします」というのはサービス提供者としては越権行為かもしれません。ただ、やはり目測を誤って大を注文してしまう人がたくさんいるのでしょう。店員さんがわも、目測を誤って大を注文してしまい、公開するお客さんをたくさん見てきたのかもしれません。この制止は、サービス提供者から見た場合には勇気のある好ましい越権行為です。今回の「二郎大盛残し」の場合は、直接の店員さんの制止を振り切って行っている行為です。ここには大きな違いがありそうです。

 「お金を払っているなら客の自由」という権利意識は、あまり調和のとれた社会を目指すうえでは好ましいものではありませんが、一方で「自由」を大きく規制してしまうような社会秩序も好ましいものではありません。このあたりの「節度」のようなもの、すなわち「ソフト・ロー」と呼ばれるものは私たち一人一人が生きていくうえで「常識」として獲得していく知恵です。「ソフト・ロー」が何でできているのかということについて考えるとき、「似たようなことなのにもかかわらず明らかに違った感覚を覚えるもの」に目を向けるようにしています。「金を払って他人に迷惑をかけていない客の不自由」に関する行為を考えたとき、その行為の意図、利益/不利益バランス、そして「しないでください」といっているにもかかわらずするのかどうか。このあたりが秩序の源泉なのかと思いました。

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