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「悪いこと」と「悪い奴」の判断基準

<断末魔エンタメとしての“つるし上げ → 謝罪”>

 最近のテレビは「あいつが悪いことをした。だから悪い奴である。悪い奴ををみんなでこらしめよう。そして謝らせて辞任させよう」という「エンターテイメント」で食っている気がします。次から次へと「悪いことをした人」を見つけてきてはとっちめているのですが、もはや一部の人たち(正義依存症の人たち)を除いてこの「悪い奴たたき」も食傷気味になってきました。それでも、テレビは相変わらず「悪い奴たたき」をやめようとはしません。たぶん、もはやこれくらいしかテレビにはエンターテイメントの方法論がないのかもしれません。ある大手週刊誌の人から聞いたのですが、「悪い奴たたき」と「健康の心配をあおること」は確実に部数をとることができるんだそうです。特に、テレビの方は「悪い奴たたき」がエンタメとして番組構成が楽なのだと思います。テレビって、基本そういう風に見ておくべきメディアだと思います。

 その意味では、最近の「有名人」と言われる人たちは本当に気の毒です。ちょっとでも「悪い奴」とされるようなネタを提供しようものならメディアは容赦がないですから。「悪い奴たたき」のエンタメにおいてはもうパスが走っていて、不祥事なるものを起こした大体の有名人の方はこのパスに乗ってくれます。「コメンテーターが『こいつ悪い奴だ。だって悪いことしたもん』とつるしあげ → 『謝れ』という言葉をいくつかのメディアから紹介 → 当事者が深々とお辞儀をして謝罪 → 『私は悪い奴です』という自供の言葉 → 関係者もなぜか『仲間が悪い奴でごめんなさい』と謝罪 → 当事者が辞任とか謹慎 → 次の獲物探す」というパスですね。やってられないパスですが、番組作る方としては実に楽です。

 その意味では、今回のピエール瀧被告のまさに盟友であった電気グルーヴ 石野卓球さん(以下、敬意をこめて「卓球」とします)の今回のふるまいは本当に素晴らしくクレバーでもあります。テレビなんて、どうせいつものパスが終わったら次の標的にさっさと移るに決まっている、ということを卓球はよく知っていました。だからこそ死んでもそのパスには乗らなかったのです。そして、この卓球の勇気と愛情に満ちた振る舞いは、多くの人たちに考える機会を与えました。


<パス(Pathway)の最大の副作用>

 「パス(Pathway)」は、物事の手順を効率化させます。だからこそ、至るとこにパスは生まれ、運用され始めます。しかし、パスの最も重大な副作用に「そのプロセスから思考をうばいさること」があります。人は、パスに乗ってしまうと「そういうものだ」と自然と思うようになってしまいます。引っかからないのです。ところが、卓球はパスに組み込まれた「関係者もなぜか『仲間が悪い奴でごめんなさい』と謝罪」を徹底的に拒否しました。これが、何かに対するカウンターなのか、それとも自然な行為なのかについて私は知る由もありませんが、私はやはりこれはメジャーメディアに対する強烈な意図を持ったカウンターだと思っています。なぜなら、卓球は「パンクス」ですから。

 今回の卓球の愛と勇気に満ちた「茶化し」を受けて、今まで同じような「パス」をみてあまり考えていなかった多くの人たちが考え始めました。ここが大切なところなのです。さて、何を考えるようになったのでしょうか?それはたぶん人さまざまです。ある人は「なぜ関係者だからという理由で謝る必要があるのか?」について考えたかもしれませんし、ある人は「悪いことをして悪い奴というラベルを張られた人は、笑顔を見せてはいけないのか?」ということについて考えたかもしれません。本当に今回の一見は、今まで考えていなかったことを考えるポイントが満載なのです。私は、例えば「バカに『バーカ!』というときはどんな時か?」について考えたりしたのですが、以下行う考察は2点。一つは「人は何をもって、どの程度『悪いこと』について認識するのか?」という問い、もう一つは「悪いことをした人は、悪い奴なのか?」という問いです。


<ポイント1:人は何をもって、どの程度『悪いこと』について認識するのか?>

 「悪いことの基準」は、人によって異なっています。業界用語でいうなら、これが「メタ倫理」です。すなわち「この事案はどれくらい良いことでどれくらい悪いことなのか?」ということを検討することが「倫理的な考察」だとしたとき、「その『よいこと』とか『悪いこと』について何をもって推し量っているのか?」ということを検討することが「メタ倫理」ということです。倫理/哲学業界の専門家の中にはこんなことを一生かけて考えている人たちがいますが、私の理解ではざっくりいうとこの基準は2つです。一つは「辛いことがたくさん起きることは悪いことだ」という基準、もう一つは「悪いとされていることをすることは悪いことだ」という基準です。この二つをかみ合わせながら「悪いこと」というのは認識されていきます。

 前半の「辛いことがたくさん起きることは悪いことだ」という基準はわかりやすいです。たとえば、私が今隣にいる人をグーで殴ったとしたらこれは「悪いこと」です。私の行為によって苦痛を得る人がいるのですから。しかも、その殴り方が強ければ強いほどその「悪さ」は大きくなっていきます。おそらく人が得る苦痛は「辛さの大きさX辛さの時間X辛さを被った人」の相対で計算できそうです。辛さの大きさがMAXな行為は例えばレイプかもしれません。時間の持続性としてはいじめなどが代表的なものでしょうか?そして、辛さのN数の多さとしては戦争があります。「辛い思いを生む行為は、悪いことだ。そして、その量がたくさんであればあるほど悪さは大きい」という基準はとても分かりやすいです。私自身はこの考え方にとても共感します。

しかし、この基準は相対的でもあります。そこに難しいところがあるのです。例えば、ある裁判官はレイプされた女性を前に「嫌なんだったらもっと抵抗することができたのではないか?本当は辛くはなくって、気持ちよかったのではないのか?」というような言葉を苦痛の当事者に向けて話してしまうことがあるかもしれません。ある行為が自分にもたらしたことがどれほどつらいことだったのかというのは、基本的に主観的なことなのです。ですから、辛いことを生み出した事象を「悪いこと」とするときにはひとりひとりの想像力と思考と覚悟が必要になります・

もう一つの基準である「悪いとされていることをすることは悪いことだ」というのは、私にはあまりしっくりこない基準なのですが、これはこれで一つの考え方です。「悪いとされていること」の最もわかりやすい規範は「法に触れるかどうか」です。法はもちろん勝手に生まれるものではなく、世の中にいろいろある「社会の秩序をみだすこと」を管理するために生まれるものですし、その基準となるものが、法の下に管理される社会がコンセンサスとして持っている「よいこと」「悪いこと」についての認識です。ですから「違法行為をしたことは悪いことだ」という考え方はおおむね正しいでしょう。一方で「悪いこと」に関して「違法行為かどうか」で判断するというのはあまりにもおおざっぱな気がします。

「悪いとされていることをすることは悪いことだ」という基準のもう一つの側面は、わかりやすい不道徳行為です。例えば「不倫」だったり「ウソつき」だったりですね。このようなわかりやすくラベルが張られた「不道徳行為」を「悪いこと」とするのは、社会を統治していくうえで有効な方法かもしれません。ただ、私たちは一つ一つの物語の中で「確かに不倫の定義には当てはまるが、この場合は致し方がないのではないか?」とか「この状況でこの日とかこのようなウソをつくことは、むしろ良いことなのではないか?」という事例を知っているはずです。その意味では「悪いとされていることをすることは悪いことだ」と認識する上でも、人間は考えなければならないのです。

ピエール瀧被告の今回のコカイン使用に対するいろんな立場の人のいろんな意見は、上記のことを大きく私、そしてその他多くの人々に考える機会を与えました。違法薬物を使用したことは確かに違法行為です。そして、それなりの罰則が付与されるべき「悪いこと」であることは間違いないです。翻って、「その行いに対して誰がどれほどの辛さを得たのか?」ということや「その人が置かれるその状況においてその人が行った『違法行為』あるいは『不道徳行為』はどのくらい『あるべきでない』ことだったのか?」ということについての考え方の違い、そして、考えの大きさの違いが意見の多様性を生んでいきました。おそらく多くの方が「今までなにかのパスに乗せられていたかもしれない」と気が付き始めたのではないでしょうか?私は、これは大きな希望だと思います。


<ポイント2:悪いことをした人は、悪い奴なのか?>

不祥事に関連するニュースを見ていると、あたかも「悪いことをした人=悪い奴」というような前提の認識で報道がなされているような気がしています。しかし、例えば私にはピエール瀧被告はどこからどう見ても「悪い奴」には見えません。悪い奴は悪いことをするかもしれませんし、悪いことをした人の中に悪い奴はそれなりの割合でいると思います。しかし「悪いことをした人=悪い奴」というみなし方は、あまりにも乱暴な気がします。例はいくらでも出せそうです。飢餓の限界でコンビニで万引きをしてしまった人はおそらく悪い奴ではありません。悪い奴に脅迫されて悪いことに加担してしまった人もおそらく悪い奴ではありません。ある人が「悪いこと」をしたときには、そこに何かしらの背景があるはずです。そして、悪い奴ではない人が悪いことをせざるを得なかった背景はとてもたくさん存在すると私は考えます。一方で、悪いことをしていない、あるいは、悪いことが明るみになっていない悪い奴もたくさんいると思います。

どうして「悪いことをした人=悪い奴」という認識になってしまうのか?それは、本当は問題こそが問題なのに、人を問題にしてしまうというメカニズムが人間社会の中に確かにある、というところにあるのだと私は考えています。「なぜ問題である問題が、問題の主体である人に向かうのか?」という問いは極めて大きなテーマなので、また別途ほってみたいと思いますが、要するに人を問題にした方が物事を簡単につかむことができるということなのだと思います。そして、人を対象にした方が問題を対象にするよりも「責める側」にカタルシスが得られる、ということなのだと思っています。これは本当に怖い仕組みです。

では「悪い奴」とはどんなやつのことでしょうか?私は、それは「悪意をもって悪事を働く人」だと思います。悪意とは何か?これが、最初の問いにつながります。私は「悪いこととされていることをしようとすること」を悪意とはとらえていません。なぜなら「悪いこととされていること」そのものは単なる約束だからです。しようとしたことが、たまたま「悪いこととされていること」だったのです。むしろ、私はもう一つに基準である「誰かがつらい思いをすることをしようとすること」が「悪意」の持つ意味だと思います。さらに言うとそこに「自分が快楽を得るために」という条件が付くのかもしれません。誰の心にも、もちろん私の心にも「悪い奴」は必ず潜んでいます。心の中に「悪い奴」が全くいない人間がおそらく「聖人」と呼ばれる人なのでしょう。その意味において、悪いことをした人に対して「悪い奴」として苦痛を与え、正義の名のもとに気持ちよくなっている人を見ると、それはその人の中にある「悪い奴」の仕業なのかと思うのです。

以上は私が今回のピエール瀧被告にまつわるいろいろを観ながら感じたことですが、実かこれらは戯言のような気がします。もっとも重要であり感動したことは、卓球の「瀧がある日今までしてきた悪いことで有名になったとしても、俺にとっての瀧は何も変わらない。俺にとっての瀧は、今までもこれからも瀧だ」というメッセージでした。このメッセージは令和最初のメッセージとしてとても強烈です。最後はRCサクセションのパクリでした。

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