クラスタ

1人の人が起こした1つの事件をあるクラスタの特性が原因とみなすことについて

 今日たまたま昼のワイドショー的なテレビ番組をご飯を食べながらつけていたのですが、そこでコメンテーターの皆さんが語っている「前提」に対して「ちょ、どうしてその前提???」とびっくりしてしまいました。先日起きた川崎登戸での殺傷事件についての話題だったのですが、テレビでいろんなことを話している人たちのだれもが前提として「犯人は引きこもりだった。引きこもりがこの事件の原因だった。だから、引きこもりを生む社会を何とかしないといけない」という認識で話が進んでいたのです。どうしたらそういう理解になるのかが理解できなかったので、何かしら「引きこもりの人はより人を殺す傾向にある」という実証的根拠の提示でもあったのかしらんとネットニュースなどを見てみたのですが、やはりそのような根拠を知っての議論ではなさそうでした。

 もちろん先日の事件は凄惨極まりないとんでもない事件であり、同じような不幸が起こらないように様々な手立てを考えるということについては賛成です。しかしながら、このことが「引きこもり問題」とつながることがよく理解できませんでした。今回の事件はオウム真理教のサリン事件とは違います。1人の人間が起こした1つの事件なのです。そして、その個人はその個人を構成する様々な特性を持っています。例えば「年齢層」「性別」「婚姻状況」「職歴」「学歴」「喫煙習慣」「飲酒習慣」のようなわかりやすい特性から「緑色が好き」「ラッセンが好き」「太宰の本をたくさん持っている」「筒井康隆の本をたくさん持っている」など、より個人の価値観や趣味嗜好を表すような特性まで様々です。そして、今回の犯人も同様に様々な特性の中で自らのアイデンティティが形成されていた人だと思います。にもかかわらず、なぜ「引きこもりだった」ことだけがさも殺人鬼を生む要因のような前提で語られるのでしょうか?さらには、「引きこもりを作らないように」というロジックが出てしまうのでしょうか?

 まず前段の疑問についてです。先ほど私は「理解できませんでした」と言いましたが、本当のことを言うとこのようなことになるのではないかと少し私は予測していました。残酷な事件の当事者の特性をいくつかスキャンして、体のいい個人の特性を見つけては「根本原因」のように仕立てる、ということは長い歴史の中で何度も何度も繰り返されていることなのです。「●●●の特性を持っている人間は人殺し(あるいは窃盗、あるいはその他すべての禍)の“極めて危険な”リスクを有する」という理論が出てくるにはそれなりの背景があります。たとえば、魔女狩りにおいて「あいつは魔女だ」という診断をされる際の根拠となるものにそれは似ていると私は思っています。それは何かというと、他のだれかたくさんの人たちにとって「理解できない特性」あるいは「生理的に嫌悪感を抱くような特性」だというのが私の理解です。

 人は、自分にとってよく理解できない人を「変な人」とする傾向があります。さらに、その「変な人」の特性を言語化することで安心する傾向があります。たとえば、それは「引きこもり」だったり「ネット民」だったり「同性愛者」だったりです。そして、このように個人の特性をラベルづけし、何らかのカテゴリに分類することで、自分にとって理解が及ばないことに対して「変な人たち」、さらには「何をするかわからない人たち」という印象操作がなされていきます。そして、そのカテゴリにあてはめることができる個人がやらかした危険な行為が明るみに出たとき、「やっぱり何をするかわからない人たちは危険なことをする」という因果モデルにあてはめていく、という構図がそこにはあると思っています。まずは、特定の「理解できない特性」に対する嫌悪感情が先にあるのです。こここそがいじめ社会の構造の根幹にあると私は考えます。

一つこの話の対比として、80歳を超える高齢の方が交通事故を起こしたという話題が最近しばしばニュースになっており、高齢者の自動車免許更新制度について言及がなされています。ここでも「高齢者」という一つの特性と「交通事故を起こすリスク」との因果関係を前提に議論が展開されています。私はこの議論は合理的だと思っています。確かめていないため恐縮ですが、この因果関係には実証的な根拠があり、また、セオリーとしても合理性があります。1人の高齢者がたまたま1つの重大な交通事故を起こしたというエピソードが独立して複数発生しているわけではありません。そして、特にここには「高齢者=理解できない人、何をするかわからない人」という陰性感情が社会の中に発生している感じがしません。私は、特にこの最後の「理解できない人、何をするかわからない人」に対してそのクラスタ全体を「リスクグループ」としてしまうことを何よりも気持ち悪いと思うのです。その時に疫学という方法論に実証主義のやさしさを感じます。

 次に、後段の疑問を考えます。有名なエピソードとして、かつてジョンレノンを射殺したマーク・チャップマンがかばんにサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」が入っていて、チャップマンは熱心なサリンジャーの読者だったことが知られています。このようなエピソードは偶然出てくるものではなく、少なからず何らかの文脈があります。例えば、チャップマンのカバンの中にマドラスチェックのハンカチが入っていたとしても、それが話題になることはないのです。なぜなら「ジョンレノンを撃つ」ということと「サリンジャーのファン」については何らかの親和性があり、「マドラスチェックのハンカチのユーザー」との親和性はなさそうだからです。おそらく何の実証的な根拠もないだろうという点においては、「引きこもり=殺人者のリスク」と同じように乱暴な論旨だと思います。では、何が違うのかというと「ジョンレノンを撃とうとする人」という概念と「サリンジャーが好き」という概念との間にはとても複雑な関係が存在し、そても1対1の因果関係にはないだろう、という理解の中で、チャップマンのカバンの中に「ライ麦畑でつかまえて」が入っていたことに対してたくさんの人が「なるほどねえ」と認識している、ということなのです。だから、ジョンレノンが殺されたときに「サリンジャーなんか読んじゃいけない」みたいな言説はなかったと思います。「2つが関連している」ことと「ある結果の主原因として特定している」ということはまるで意味が異なります。そのあたりのデリケートな部分が完全に抜け落ちた状態で今回の事件における「引きこもり」が語られているのはとても悲しい気持ちです。

 短絡的な特性クラスタによる分類、そして、短絡的な因果関係の説明は、差別社会の深刻な病だと私は考えます。これはまさに「明日は我が身」です。誰もが「その他大勢の人々」からみると「理解できない」何かしらの特性を持っているのではないでしょうか?たまたまその特性を持っていたというだけで特定のクラスタにカテゴリ付けされてしまい、そのうえで「危険人物」扱いされてしまうのです。そして、その源泉となっているのが「理解できない」人たちに対する嫌悪感だったとしたら、まさにこれはいじめの構造そのものなのです。

 最後に、今回のことを通じて私は医師として患者を診断し、病名をつけることに対する恐ろしさを感じました。「認知症」などのような疾患に限らず、「糖尿病」にしろ「癌」にしろ、それぞれの人生を歩んできた一人一人の個人に対して「この人は今後どうなるかわからない」「この人は将来のある姿に対するリスクグループだ」という診断を下し、新たな(陰の)特性を与えることは、何かしらその人が差別の対象になる火種を与えるということでもあります。「人を診断する」ということは尊重するべき複雑な個人を単純なクラスタにカテゴリ分けしてしまうことです。そして、そのクラスタは「将来脳卒中になる危険が高い人」とか「将来自殺す危険が高い人」という因果モデルとセットで存在しています。医療サービスを適切に行っていくうえでは、どうしてもそのような手順は避けられません。しかしながら、これはどこかしら今日自分が見たテレビのワードショーでコメンテーターの人がやっているのと同じような暴力性と気持ち悪さを内包している行為なのだということを意識しながら臨床を続けたいと思います。

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